秘密の部屋

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 秘密の部屋はマンションの一室にある。  そこは互いの自宅でも、誰もが利用できるホテルでもなくて、私たちだけが知っている秘密の部屋。愛を確かめ合う時にだけ開く──秘密の扉。 『急だけど今から会える?』  今日会えると思わなかった──。  恋人の(りつ)が大学を卒業してから務めていた会社を辞めて、お兄さんと一緒に会社を立ち上げたのがちょうど一年前。会社が軌道に乗ると律はどんどん忙しくなって、いつの間にかゆっくりと二人で過ごせる時間は減ってしまっていた。と言っても全く会えないわけではないし、それなりに寂しさを紛らわせながら過ごしていたのに、ついに前の職場に近いという理由で借りていた部屋を引き払って、新しい会社の近くに引っ越すという話まで出てきてしまった。遠距離とまでは呼べなくとも、私の家からは随分と離れてしまう。ただでさえ会える時間が減ってしまったのに、その上距離も離れてしまうなんて耐えられない──なんて、彼の仕事のことを考えるとそんなわがままを言えるはずもなく、引っ越しの準備を終えた部屋で一人肩を落とした。 「落ち着いたら新しい家に呼ぶから」 「うん」 「そんな顔するなよ、またすぐ会いに来るって」 「だって……」  困らせたいわけじゃない、ただ本当に寂しいんだよ。素直に笑えない私の顔を覗き込むと、律は突然なにかを思いついたかのようにスマホを取り出した。 『なぁ、紗良(さら)。秘密の部屋借りてみるか』  私の家と律の家の丁度半分の距離。そこに二人でワンルームの小さな部屋を借りた。それが私と律の秘密の部屋。互いの仕事の都合が合えばここで会う約束をして、ここで一晩を過ごす。誰に秘密にする必要があるわけではないのだけれど『秘密の部屋』という響きを私は妙に気に入っていた。現に、ここで律に会えると思うだけで胸は以前にもまして高鳴るようになったのだから。  いつものように真っ暗な部屋にオレンジの灯りが灯ると、静かで冷たい部屋がほんのりと熱をもつ。綺麗に整えてあるベッドに視線をやれば、一ヶ月ほど前に寂しかった心をめいいっぱい満たしてもらった甘い夜の記憶が蘇った。空気を入れ換えるために開けた窓から入る冷たい風が、彼との情事を思い出して熱を持った頬のほてりを冷ましてくれる。  もうすぐ着く頃だろうか、時間を確認するために携帯に手を伸ばすと、触れた指先にタイミング良く小さな 振動が伝わった。 『紗良、電気消して』  電気……?まるで部屋が見えているかのような彼からのメッセージに思わず窓の外を見渡してみるけれど、彼の姿は見当たらない。 「どこにいるの?」 『玄関の前に着いているけどまだドアは開けないで』  どうして?不思議に思いながら玄関のドアに視線を移すと、再び携帯が振動する。 『電気を消して玄関の前で目を閉じて待っていて』  少しの不安と、彼に会える喜びが入り交じる胸がとくとくと心拍を速めていく。窓をしめると先程つけた照明を消して、誰の気配も感じない玄関に一歩、また一歩と近づいた。 「玄関の前についたよ」 『じゃぁ、携帯を床に置いて目を閉じて。いいって言うまで開けないで』  彼から言われた通りに携帯を手放し、暗闇の中目を閉じる。 カチャ。  ドアの開く音がやけに大きく響いて、体がぴくりと震えた。そして、瞬間に感じる彼の匂い。目を開けたい衝動をぐっと抑えて、震える唇を開いた。 「り……つ?」  彼の大きな手がゆっくりと髪の毛を撫でると、恋しかった温もりが涙腺を刺激した。 「律、目開けてい……っ」  早く愛しい人の顔が見たい、はやる気持ちを言葉にしようとした瞬間。目元に感じる冷たい布の感触に、肩が大きく上下する。 「……っ、あ、何……」  頭の後ろでその布が結ばれた感覚がして、目隠しをされたのだと理解した途端、恐怖と不安で目の前にいるであろう彼にしがみついた。 「り……律、どうしたの?なんで目隠……っ、あ……やぁ……」  何の前触れもなく耳の奥に水音が響いて、耳をなぞる彼の舌に感じたことのない快感が体を突き抜けた。 「う……あっ、やだ……!待っ……律……」  視界が遮られているせか、彼が一言も発しないせいか。まるで全ての感覚が研ぎ澄まされているかのように、与えられる刺激に体中が反応する。その快感に抗うこともできず、力なく彼に全身を委ねた。 「んっ、あ、や……」  私が感じられるのは頬に触れる彼の髪や、背中に回った彼の腕、敏感な場所を這う舌の熱さ。そして、いつも以上に感じる彼の匂い。  頭がおかしくなりそうだった。怖いのに、早く声が聞きたくて、私を見つめる熱い視線を全身で受けたいはずなのに。 「……ん、あっ……」  重なる唇のその奥を求めるように舌をねじ込んで、溢れる透明な雫を何度もすくいられると、ついに情けなくその場へ崩れ落ちた。 「は……っ……は……」  何も見えない。玄関に座り込んだ私の目の前に彼がいるという事実しか分からない。 「律……」  それなのに、私の体はいつも以上に彼を求めていた。初めての感情に目を覆う薄い布には涙がぐっしょりと染みている。  大丈夫だよ、とでも言いたげに彼の長い指が何度も私の髪の毛を撫でると、呼吸は落ち着くどころか拍車がかかるように苦しくなっていく。  どうしよう、こんなの知らない。  怖いよ、律。  怖いのに……。 「律……っ、早く……」  小さく漏れ聞こえる彼の吐息。そこから聞きなれた彼の声を必死に探ろうとするのに、甘い吐息が更なる快感を誘って、耳に入る音全てに犯されていくような感覚に陥った。 「あっ、はぁ……っ、ん」  こんな指の形で、こんな舌の這わせ方で、こんな愛し方をする人だったかな。  強すぎる刺激に真っ白になりそうになる頭を小さく振って、私の胸元に顔を埋める彼の髪の毛に指を差し込んだ。柔らかくて、でもほんの少し傷んだ髪の毛。  同じはずだけど、同じじゃない。  同じじゃないけど、確かに感じる安心する匂い。  今日の彼はいつもと違う。  ううん、今日の私が、いつもの私じゃないのかもしれない。 「目……外したいよ」  もうすぐ迎えるであろう更に深い快感を目の前にして、縋るように彼に手を伸ばすと見えない視界がぐらりと揺れた。 「あ……っ!やぁ、待っ……」  掴まれた腕を引き寄せらると彼の上を跨ぐ形になって、高まる熱と刺激に必死に首を振る。 「やだっ、あっ、ん……律……」  泣き声を上げそうになる唇に彼の指が差し込まれると、声として放出されるはずの熱が奥の方にじわじわと溜まって、絶え間なく与えられる快感に体を委ねることしか出来なかった。 「だめ……っ、あ……もう」  ぎっ、ぎっ、と激しく鳴るスプリングの音に混じる水音、呼吸、熱に侵された甘い声。  感じたことのない、深い快感に飲み込まれる瞬間に微かに聞こえた掠れた「ごめん」は確かに聞き覚えのある声だった。  律……?どうしたの?  あれ、これは誰のこ……え……?  あぁ、だめ……もう……何も考えられない。  意識を失うように彼の胸に倒れ込んで、目が覚めた時、彼はもう部屋にはいなかった。  ベッドの上でゆっくり体を起こすと、昨夜乱れたはずのベッドは綺麗な状態のままで、服も部屋に来た時のまま。まるで何事も無かったかのようだ。  慌てて携帯を手にすると、昨日確かに彼と交わしたはずのメッセージは何一つ残っていなかった。 どう……して……。夢を見ていたの?  ベッドから微かに感じる彼の匂いは、数ヶ月前に会った彼の残り香だったのだろうか。その匂いに包まれて、もしかして私はあんな夢を──?まだ覚めきらない頭をすっきりさせようと、ベッドから降りると手のひらの携帯が着信を知らせた。 「律!」 『おはよ。昨日はごめん』 「やっぱり昨日……!」 『携帯を忘れて退社したんだけど取りに行く時間がなくてさ、一晩会社にいた兄貴に預けてたんだ。連絡出来ず悪かった』 ────え? 『来週あたり休みが取れそうだから。もう少し待ってて』    携帯を、預けていた? 『紗良?どうした』 「携帯、誰が持っていたって……?」 『だから兄貴。何かあった?』 「う、ううん何でもない」 『悪い、戻らないと。また連絡する』 「うん、来週会えるの楽しみにしてる」  なんだ……やっぱり夢だったんだ。  カーテンを開けて洗面所に向かうと小さく体が震えた。  夢で良かった。  夢で良かったの。  夢じゃなきゃだめ。    鏡に映った腫れた目の周りには薄く赤い線が残っていた。 「奏多(かなた)さん!もう帰るんですか?」 「うん、作業おわったからね。まだかかりそうなの?」 「いえ、僕ももう終わります。そうだ、律さんが忘れて帰った携帯僕が届けましょうか?」 「いや、大丈夫だよ。今日は疲れてるからもう寝るって言ってたし、会社の携帯は持っているみたいだから明日まで僕が預かっておくことになってるんだ」 「そうなんですね、分かりました。じゃあ僕ももう帰ります。お疲れ様でした」 「うん、お疲れ様」 「………あれ、奏多さん」 「なに?」 「律さんの香水使いました?」 「………なんで?」 「いや、今律さんと同じ匂いがしたから」 「あぁ、今日自分の香水をつけ忘れていたから、事務所に置いてある律のやつ勝手に使ったんだよね」 「また勝手にそんなことしてー。律さんそういうの嫌がるからばれたら怒られますよ」 「お前が内緒にしてくれたらばれたりしないよ」 「はは、まあそうなんですけどね。安心してください、内緒にしておきます」 「……実はさ、あの香水は僕が昔から欲しかったものなんだ」 「へぇ。兄弟だとそういう好みも似るんですかね」 「だから一度くらい貸りたって罰はあたらないよね」 「……罰?」 「全て消してしまえば。何事も無かったかのようすればいいんだよ」 「奏多さん……?」 「僕にはそれができるから」 律……お前が大切にしている「それ」は僕が昔からずっと欲しかったものだったんだよ。
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