思い出の壺

1/1

0人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 金があろうと無かろうと、骨董品屋に行っては眺めて回る男がいた。男はその日も行きつけにしている店の中に入ると、目に付いたいくつかをふんふんと触ってみては、店主の話に耳を傾けていた。  そして気づけば男は一つの壺を抱え、出ている。たとえそれで男の財布が空になっても、男は幸福だった。  男は帰り道を急ぎながら、先ほどの会話を思い返した。 「今日は凄いのが入ってますよ」 「ほほう。誰の作だい?」 「誰のものかは定かではありませんが、まあかなり古いものです。ただそんなことはどうだっていいことで。いいですかこの壺はね、中をのぞきこむと、とっても幸せになれる壺なんです」 「なんだいそりゃ。骨董として価値がありゃあ欲しいがね、そんなオカルトなんぞ欲しくもなんともないよ」  いぶかしげな表情をする男に、店主はまあまあと壺の口を向けた。そして男が壺の中をのぞきこんでみると、突然男の目の前にある光景が広がりはじめたのだった。  それは男の幼時の景色だった。母に手を引かれ歩いた神社の石畳、道の両端には途切れなく屋台が連なっている。リンゴ飴に射的、金魚すくいに綿あめや焼きとうもろこし。人並みに時折押されながら、まだ幼い男はこの連なりがどこまでも続いているように思われた。活気と喜びに満ちる人々の声が、遠くで鳴り続ける太鼓の音と混ざり、心地よく響く。もはやその汗ばんだ身体も、夏の蒸し暑さによるものか、それとも自分の興奮によるものなのかは分からなかった。だがその熱は少なくとも心地良かった。  それは男の記憶の奥底にあった、もう随分と思い起こすことの無かった記憶だった。それが今再び輝きを持って、男の前に流れたのである。そして顔を上げた男の心には幸福感だけが残っていた。 「どうですか、幸せな気分になったでしょう」 「これはいくらだ?」  男はすぐさま店主に壺の値段を聞いた。それは決して安くは無い値段ではあったが、ぴたりと財布の中にあった金額と同じだったために、男はすぐさまその額を払った。 「これは幸運だった。まとまった金が丁度入っている」 「初めから何か買うつもりだったのでしょう。今日は買わない買わないと言いながら、いつも買っていかれますから」 「なに毎回ではないだろう。買えない日は本当に買えないのだから」  男は高笑いすると、壺を抱え、店を出た。  家に着き、男は自分の部屋の机の上に、うやうやしく壺を置いた。そしてのぞきこむ前に壺のふちや表面を丁寧に拭いていると、部屋の前を通りかかった妻が声をかけた。 「あらまあ、まだそれ売ってなかったんですか」 「なに、お前は何を言ってるんだ」 「だってその壺を売ってしまうんだと、家を出ていったじゃないですか」 「お前は一体どんな目をしてるんだ。それはきっと別の壺だろ。俺はこの素晴らしい壺をたった今買ってきたんだ」 「同じような壺をまた買ってきたってことですね。いいかげんその部屋片づけたらどうですか」 「なんだと、お前みたいな何の価値も分からないやつがな、俺の骨董にとやかく言うんじゃない。これは宝の山だぞ」  妻は慣れたようにへいへいと聞き流して立ち去ってしまう。男の部屋には骨董が所狭しと並べられていた。確かに何の知識も無い人間から見れば、同じように見える壺などいくらでもあった。そして金が無いために、泣く泣く自自分のコレクションを売り払い、新たな骨董品を買うことなんかもしょっちゅうであった。 「……へへへ、これは今までの骨董とは一味も二味も違う。何しろのぞくだけで幸福になれる壺だ」  男は再び壺の中をのぞきこんだ。   男の目の前に流れるのは、まだ学生の時分の光景だった。親友であった田村という男と共に歩いた河原での桜景色や、共に眺めた風に揺れる稲穂が夕陽に照らされる風景、さらには合格を喜びあった高校の合格発表、その後も共に過ごした高校生活のくだらないばかりのひととき。  それらは時間と共に朧げになってきた景色であり、今再び鮮明な形となって目前へと現れたそれを眺めているだけで、男は胸が熱くなる思いだった。  壺の中で思い出たちはめくるめく流れ続ける。高校も終盤、同じ難関大学を目指し励んだ日々の勉強、結果としては田村だけが受かったが今となってはそれもいい思い出かもしれなかった。大学、就職を終えても田村とは定期的に集まり、酒を飲み交わした。  男は顔を上げる。胸には心地よい感覚だけが残っている。この壺はなんて素晴らしいものであろうかと思う。ただのぞきこむそれだけで、何にも代えがたい幸福感を手に入れることが出来るのである。 「ちょっと、ちょっと」  男が振り向くとそこには電話を持った妻が立っており、その表情は暗く、何かに怯えているようでもあった。どうしたと男が訊ねると、妻は声を震わせながら、「田村さんが亡くなったそうです」と呟いた。 「なに、田村が?」  男は妻に駆け寄るとその手から電話をひったくり、耳にあてた。その声は田村の妻のものであり、彼女は涙を流しながら、田村が今さっき突然の心筋梗塞で亡くなったこと、そして生前懇意にしていた男にはすぐにと、この電話をしたのだということを言葉にした。男はその言葉を聞き終えると、そっと電話を切った。 「……少し一人にしてくれるか」  妻は男から電話を受け取り、部屋から出ると、男は部屋の扉をぴしゃりと閉めた。  その時男の心境には、親友を失った悲しみは僅かにしかなかった。そしてそれに対し、強烈な違和感に襲われていた。  田村は間違いなく自分の、唯一と言っていい、かけがえのない無二の親友であるはずだった。それは覚えている。だがなぜ田村は俺の親友なのだろう。俺と田村とはこれまで、一体どんなことをしてきたのだろう、どんな日々を送ってきて、どんな経緯で親友となったのだろう。それが何一つ分からなかった。覚えていなかった。  自分の記憶には田村という存在が確かにこびり付いている、だが何一つ覚えていない。それがどこまでも気持ち悪かった。 「なんだ、これは、田村、誰だ、お前は、」  男は気づけば、壺のもとへと駆け寄っていた。そして壺をのぞきこむ。この強い違和感を拭い去るために、幸福感を手に入れようと思った。  次に流れたのは妻との記憶だった。妻と出会い、いくつもの困難を乗り越え、平穏なこの日々を手に入れた。あの頃は確かに苦しんだものだが、これも今になって振り返ればいい思い出だと男は思った。そして妻と行った数々の場所の美しい光景、その一つ一つを妻と共有し、これまで歩んできたのだった。  男は顔を上げる。そして何か良いものを見たという幸福な感情だけが胸に残っているのを感じる。  それからの日々は、男にとって違和感の塊となった。目の前で飯を食い、自分に向かい親しげに語りかける妻の姿が、とても信じられなかったのである。  なぜこの女は俺と飯を食っているのだろう。なぜこの女は俺にこんなにも親しげに話しかけているのだろう。こんなにも柔らかな、何の警戒も無い笑顔を俺に振りまいているのだろう。俺の横でさも安心しきって寝息をたてているのだろう。この女が俺の妻だという感覚はある。だが俺はこの女を、ちっとも愛していないではないかと思った。 「ちょっとお願いがあるんですけど」  ある日、妻は男の部屋に出向き、そう打ち明けた。 「私達もそろそろ真剣に老後のことなんかも考え始めなきゃいけない年齢だと思うんです。だからその、そろそろこういったものに使うお金を、貯蓄に回していただかないと」  妻は部屋を囲む骨董たちに目を向けながらそう言った。 「それは俺にこいつらを捨てろということか?」  気づけば男は、声を荒げているのだった。 「何のかかわりも無いお前に飯を食わせてやってるだけでも十分だと思えば、老後のためにこいつらを捨てろだと?売り払えだと?貴様何様のつもりだ!俺が何も言わないのをいいことに好き放題しやがって!そもそも貴様は一体何者なんだ!」  男は妻を殴った。大きな音を立てて妻は吹き飛んだ。顔を上げ夫の顔を見るその顔には、強い恐怖が浮かんでいた。 「……あなた一体どうしたんですか、何が、」 「黙れ!出ていけ!この家から今すぐだ!でないと殺してやるぞ!」  妻は逃げるように家を出た。一人残された男は、しばらくすると再び壺をのぞいた。そうすれば一時の幸せを手に入れることが出来た。 「ほんとにいいのですか?」  骨董屋で、男は涙を流しながらその壺を店主に差し出していた。 「あんたは本当に恐ろしい物を俺に売ってくれた。確かにこの壺をのぞきこめば、俺は幸せになった。だが途中で俺はようやく気づいた。この壺をのぞきこむようになってから、俺の心にはなんだか強い違和感が残ることに、なんだか大切なものが次から次へと、失われてしまうような」 「……ええ、これはのぞきこめば記憶の底にある思い出を再び見せる。だがその流れを見れば最後に、それはどこかへと消え去る」 「俺の記憶を返してくれ。俺はきっとこの壺を買ってから、いくつもの大切なものを失った」 「一度消え去ったものは諦めてもらうしかありません。しかしうちは骨董屋ですから、お望み通りこの壺を買いとりましょう。この値段ではどうでしょう?」  店主は男に値段を告げる。男はこんなものは早く手放そうと、それに承知し金を受け取った。 「あとね、この壺は悪い思い出だって吸い込んでくれますよ。最後にどうですか、今の最悪な気分を吸い取っていったら」  それを聞くと男は壺をのぞきこんだ。そして再び顔をあげる頃には、また記憶を一つ失っていた。 「今日は凄いのが入ってますよ。この壺です」 「ほほう。誰の作だい?」 「誰のものかは定かではありませんが、まあかなり古いものです。ただそんなことはどうだっていいことで。いいですかこの壺はね、中をのぞきこむと、とっても幸せになれる壺なんです」
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加