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あの日、私は夜が明けるまで涙を枯らすことはなかった。
窓のないピアノ室に朝日が差し込むことはなかったけれど、誰かがそろそろ夜明けだと言ったのをきっかけに、私はふと顔を上げたのだ。
そして次にしたことは、音弥からの最後の贈り物を探すことだった。
まっすぐに二階の音弥の部屋に行き、CDが並んでいる棚のフォトフレームの前に立った。
引っ越してきた日の夜、私が不在の音弥に代わり荷解きし、ここに飾った、家族全員が映っている写真だ。
そして音弥に言われた通り、その後ろを見やると――――――
《――――衣?芽衣ってば、聞いてる?》
ついあの日に心を飛ばしてしまっていると、スマホからは心配そうに友人が何度も呼びかけていた。
「あ………ごめんごめん、ちょっと雪に見惚れちゃってて……」
慌てる私に、千春が《しょうがないな》と笑う。
「ごめん、何て言ってたの?」
《だから、今度受験とか落ち着いたら、芽衣のピアノを聴かせてねって言ったの。私、まだ一度も聴かせてもらってないから》
「ああ、そうだね。でも、ブランクが長すぎてまだとても人に聴いてもらえるレベルじゃないと思うんだけど……」
《でも入試はピアノ演奏もあるんでしょ?》
「そりゃあるけど、それはあくまで試験だし、それに、今年は端から受かるとも思ってないし……」
《え?受験する前から諦めてるの?》
「だってもう何年もピアノに触ってないんだよ?音大や芸大受ける人なんて、子供の頃からず――――っとレッスンしてきた人達ばかりなんだから。何年かぶりに弾きはじめた人間が半年かそこらのレッスンで受かるわけないのよ」
《そういうものなの?でも、じゃあなんで受けるの?今年はパスして、来年受ければいいのに》
「そうかもしれないけど、場慣らしも必要だから。ずっと何年も弾いてなかったんだから、当然誰かの前で弾くのも久々なのよ。それで緊張するなって言うのが無理でしょ?だから慣れるためにも、」
《じゃあ、私の前で弾けばいいじゃない》
「あ………」
電話の向こうでニッとほくそ笑む友人が浮かんだ。
《芽衣は人前で弾く練習になるし、私は芽衣のピアノを聴かせてもらえて満足だし、一挙両得じゃない?》
「それは、まあ………確かに」
《じゃあ決まり。今年はもうあまり時間がないから、来年、もしまた受験するようなことになったら、そのときは私が人前で弾く練習に付き合ってあげるわね》
冗談たっぷりの上から目線の口ぶりに、私達は二人揃ってプッと吹き出した。
「そのときはぜひ試験官役をお願いします」
《任せて。………でも、なんか受かりそうな気もするけどね》
「ありがとう。お世辞でも嬉しい」
《お世辞じゃなくて………なんて言ったらいいのかな、芽衣を見てたら、本気でそう思うのよ》
「そうかな……?」
《だって芽衣、四月に出会った頃とは全然違う人みたいなんだもん》
「え?」
《夏休み前にさ、大学辞めて音大受験するって話してくれたじゃない?》
「うん」
《今だから言うと、そのとき、はじめて芽衣を知れた気がするのよね。それまでの芽衣って、どこか周りと線を引いてるみたいな感じがしてたから。私の勘違いだったらごめんね。でも、私はそう感じてたの。それが、音大受験を打ち明けてくれたあたりからちょっと変わってきたなと思って。みんなびっくりしてたけどさ、でも、芽衣がなんだか生き生きして見えたんだ。だから寂しいけど応援したいと思ったし、芽衣ならきっと上手くいくに違いないと思った》
「千春………」
《芽衣、頑張ってね!》
千春は力強くそう言うと、受験生の時間をこれ以上奪えないわねと笑って通話を切った。
私は窓の外をまだ舞い続けている雪を見つめながら、もしかしたら ”初雪” は、優しい友人の口実だったのかもしれないと思った。
大学で、いい友達に出会えた。
ピアノから遠ざかっていた時間だって、決して無意味じゃなかったんだと実感できる瞬間だった。
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