後悔なんてするわけないじゃん!

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「ねえ、聞いても良い?」 わたしは隣で寝転んでいるママに視線を向ける。 「何?」 ママは唇をきつく結んだ。何か言いづらいことがある時、ママは必ずそうする。ママの癖だ。 「後悔はしてない?」 しばらくの静寂の後、ママはようやくその言葉を発した。 「わたしは十四歳のあいに辛い決断をさせた。そのことを、後悔してるんじゃないかと思って」 「後悔って、特別養子縁組のこと?」 ママは何も発さずに、真っ白な天井を見ながら首肯した。 特別養子縁組。 生みの親との関係を解消し、育ての親と本当の親子になる制度だ。戸籍を見ても、生みの親の名はなく、育ての親の名が刻まれる。 わたしはそうする決断を十四歳で行った。もちろん悩んだ。 実母は存在している。実父の方は、戸籍を見ても書かれていないため、誰かはわからない。まあ、実際に誰の子かわからないのだろう。 わたしが実母に最後に会ったのは八歳の時だった。それ以降のことは何も知らない。会う約束は何度も反故にされた。 それでも、わたしは深く悩んだ。隣にいるママや、パパのことがが嫌いなわけではない。嫌いなわけがない、むしろ逆だ。大好きだ。言葉では言い尽くせない程、大好きだ。 でも、悩んだ。わたしにとって、ママとパパは、間違いなく本当の親だ。 でも、悩んだ。一度した選択は、容易に覆すことができないから。 別に血のつながりが欲しいと思っているわけじゃない。だけど、不安だった。何と言葉にすればいいのかわからない程、漠然としたものだったが、とにかく不安だった。 今にして思えば、つながりを失うのが怖かったのだろう。万が一、ママとパパから捨てられれば、わたしは本当の意味で一人になってしまうから。 特別養子縁組をしなければ、どんなに意味のないものでも、実母との血のつながりだけは存在する。 だけど、わたしは決断をした。もう、実母との日々には戻りたくないから。ママとパパが、わたしに教えてくれたから。実母との日々が、如何に異常な状態であったのかを。 わたしは虐待を受けていた。それも生半可な虐待ではない。今でも脳裏にこべりついてしまって、取ることができていない。 納屋に入れられて、飲まず食わずで二日間放置されたことはまだ序の口。そもそも食べ物なんて用意されていたことなんてなかった。赤ちゃんの頃、どうやって生きていたのか不思議なぐらいだ。 でも、少し大きくなると、わたしは食べ物を盗んだ。そうしなければ生きていくことができなかったから。 電気も水道もガスも止められていた。だから、水を飲むためには公園に行くしかなかった。 虐待はネグレクトだけにとどまらなかった。 包丁で脅されるのは日常茶飯事だったし、実際、何度か軽くとはいえ、刺された。カッターナイフで自分の腕の代わりに、わたしの腕で自傷行為を働くなんてことは、珍しくもない日常だった。今でも腕にはその当時の傷が残っている。 親からの最初の贈り物である名前ですら、面倒くさいからという理由で、あいうえおの頭二文字をとって「あい」と名付けられた。 でも、当時のわたしはそれが異常なことだとは知らなかった。知る由もなかった。だって、周囲には実母以外に誰もいなかったから。実母以外に頼れる人間が誰もいなかったから。 わたしの人生の転機になったのは、三歳になった時、何回目かわからない万引きでスーパーの店員に捕まったからだった。 そこでわたしのあまりにも細い体、腕に残る傷跡、乏しい表情、発語ができないなどの状態から、スーパーの店員が虐待を怪しみ、わたしから事情を聞いてくれた。 わたしは実母との日常を、普通だと思っていた。だから、異常な日常を、全て普通の事として話した。全てを語り終えた時、その店員は嗚咽を漏らしながら、わたしを全力で抱きしめてくれたことを今でもよく覚えている。なんでこの人は泣いているんだろう、という疑問と共に。 その後、警察に通報。最終的にわたしは児童養護施設で保護されることなった。 そして、そこからほどなくして四歳になり、ママとパパのところに来ることとなった。 「後悔なんてするわけないじゃん!」 わたしはママの手に自分の手をのせた。 「本当に?」 ママは震える声で、不安そうな声色で聞いてくる。 「今更、嘘ついたってしょうがないじゃん」 わたしは母の手を強く握った。母から強く握り返してくることはなかった。 「ずっとずっと不安だった」 母は目を固く閉じた。 「わたしたちがさせてしまった決断を、あいは後悔しているんじゃないかって。もちろん、わたしたちはあいにそういう気持ちにさせないように尽力したつもりだよ。けれど、いくら頑張っても、相手に届かなきゃ意味がない。だから、ずっと後悔させてきたんじゃないかって、不安だった」 「だとしたら、その不安は杞憂に過ぎないよ」 わたしは自分の思いが届くように、強く手を握る。 「わたしはママとパパと出会えて心の底から幸せだよ。血のつながりなんて、誰から生まれたのか、程度の問題。本当に大切なのは、わたしを如何に大切にしてくれたか、だよ。わたしは二人からたくさんの愛情をもらった。たくさんの幸せを受け取った。わたしは胸を張って言える。ママとパパは最高の親だって!」 母の目から涙が溢れた。 わたしは二人をたくさん困らせた。わたしにとっては、怒声を浴びたり、体を痛めつけられたりするのが普通の状態だった。だから、二人のところに来た時、わたしはわざと怒られる行動を取った。 物を壊すのは当たり前。ママとパパに殴りかかったことは数知れず。自傷行為も何度試みたかわからない。最も、二人が夜通し見張り続けるなど、わたしを守ってくれたから、一度として自分を傷つけることはなかったけれど。 とにかく、わたしは怒られていないのが、不安だった。 今ではそれが異常なことはわかる。けれど、当時のわたしは怒られたかった。怒られていることで、傷つけられることで安心を得たかったのだ。 でも、二人はわたしのことを決して怒らなかった。ただただ、抱きしめて、ただただ、良いんだよ、ただただ大丈夫だよ、と言ってくれた。 自然に、わたしは怒られるような行動をやめて行った。二人の愛情が、わたしを異常な状態から解放してくれたのだ。 もちろん、その後は、悪いことをすれば怒られた。それも愛情だと、わたしは同年代の子たちよりもはるかに早く理解していた。 わたしは二人にとにかく愛されていた。たくさんの愛情を、わたしに注いでくれた。 だから、わたしはショックだった。 まさか、ママが死の間際ですら、そんな不安を抱いていたことに。 パパも死の間際に同じ言葉を発していた。 その時もショックだった。特別養子縁組をしたことを後悔していると思われていたことに。 わたしはママとパパと特別養子縁組を組んだことを、少しも、わずかも、ちょっとも後悔したことがない。 おばあさんと呼ばれるにふさわしい年齢になった今でも、わたしはそう断言できる。 わたしはママの、肉が削げ落ち、皮と骨だけになった弱弱しい手を強く握る。 それを少しでも伝える。死ぬ前に、わたしの思いを伝えきる! 「わたしは、ママとパパの子供になれて、後悔なんてしたことないよ! わたしは二人の子供になれて、うれしかった!」 ふと、違う、と思った。 わたしの伝えたいことではある。だけど、本当に伝えたいことじゃなかった。 わたしが伝えたいこと……。 わたしが伝えたいこと……。 それは……。 「ありがとう、ママ」 ママの目が見開かれた。 「わたしはママとパパに、ありがとうって言いたい。わたしを二人の子供にしてくれてありがとう。わたしを救ってくれてありがとう。わたしを育んでくれてありがとう。わたしを愛してくれてありがとう。わたしを大切に包み込んでくれてありがとう」 ありがとうが止まらない。心の底から、ありがとうが溢れてくる! 「わたしは、二人に出会えなかったら、文字通りきっと死んでた。もし生きてたとしても、碌な人間になれなかった。二人がいたからだよ。わたしが人間として、ここにいることができるのは」 きっと、実母と生活を続けていたら、わたしはありがとう、という言葉すら知らなかったと思う。 ありがとう、言うだけで心が温かくなる言葉を教えてくれて、ありがとう。 「だから、ありがとう。わたしの傍にいてくれてありがとう。わたしと一緒に生きてくれてありがとう。わたしを自慢の子供だと言ってくれて、ありがとう。わたしを、わたしを、わたしを!」 言葉が詰まる。涙が止まらない。 「相変わらず、泣き虫さんだね。もうすぐお父さんのところに行くんだから、あいの素敵な笑顔を見せて。お父さんへの手土産にね」 「わたしみたいな、皺だらけのおばあちゃんの笑顔を見たって仕方ないじゃない……」 「何言ってるの?」 わたしの涙を、ママが枯れ枝のような指で拭った。 「世界で一番大好き……って言ったら、お父さんに怒られちゃうか。でも、本当だから仕方ないよね」 「世界で一番大好きなあい。その笑顔はどんなにしわくちゃになろうが、わたし、いいや、わたしたちにとっては、どんな笑顔よりも最高なんだよ」 母の指が再びわたしの涙を拭う。 「図体がでかくなろうが、全身が皺だらけになろうが、白髪まみれになろうが、あいはわたしたちにとって、いつまでも、手のかかる子供なんだ」 母は朗らかに笑った。わたしだけに向けられる、全てを包み込んでくれる優しさがあふれ出た笑顔。ずっとずっと、わたしに安心感をくれた笑顔。 それを見て、わたしも思わず笑顔になってしまう。涙も止まってしまう。 母の手がわたしの頬に触れた。 「あい、お礼を言うのは、わたしたちの方だよ」 母の両手がわたしの頬を包み込む。 「あい、ありがとう。わたしたちの子供になってくれて」 もう、言葉にならなかった。言葉なんかで言い表すなんてことができるわけがない。この世界にあるどんなものを用いても、母からの言葉のうれしさを表すことなんてできない。 「ママ、ほら、見て。笑えたよ」 わたしは小さい頃、やっと覚えた笑顔をママに見せた時と同じ言葉を口にしていた。 あの時の笑顔はとにかく酷かった。口角は上がり切らずに口の端が痙攣。眉は怒っているかのように寄った。目玉は零れ落ちないのが不思議な程、見開かれていた。 でも、今は違う。 自然に笑えるようになった。二人のおかげで、笑えるようになった。 だから、焼き付けて。わたしの最高の笑顔を! 「あい、本当にありがとう。またね」 その言葉を最後に、ママは旅立って行った。 「うん、またね」 わたしは最高の笑顔のまま、ママを見届けた。 ~FIN~
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