春に届いた手紙

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 長野県の奥地。畑と田んぼしかない道を登って、また小さな細道を行く。  駅で拾ったタクシーは、目的地についた時点で5,000円以上かかった。そのくらい何も無い田舎のところで、佐倉一音は暮らしていた。 「どうぞ」  アポも取らずにやってきた都会の女を、容易く家に上げてお茶を振る舞う。あまりのお人好しに、律の好きになるようなタイプには思えない、と私は思った。 「すみません、人様に差し上げるようなお菓子は何もないんですけど」 「いいえ、突然の訪問でしたのでお気遣い結構です」 「すみません。…あ、これ、僕のじゃなくてお隣さんから分けてもらったミカンなんですけど。よかったらどうぞ」  ミカンのどっさり入った籠を机の上に置いて、私の目の前に彼が座った。年相応のシワはあるものの、まだ幼さが残る顔つき。世間一般で言うところの童顔。  彼が律の…、と思ったところで、一音が「あの」と声をあげた。 「僕に、何か用ですか?」 「……」 「……?…あの、」 「自己紹介が遅れて申し訳ございません。私、坂下ルリ子と申します」 「…え?」 「坂下律の妻です」  ハットを取って、畳に三つ指ついて頭を下げた。3秒経って顔を上げたら、彼は今にも泣き出しそうに眉を下げて「そうですか」と笑った。その表情があまりにも儚いものだったので、私はそこでやっと、申し訳なさを感じた。  彼に会って、何を聞きたかったわけでもない。ただ佐倉一音がどんな人物なのか、律がどうして彼を好きになったのか、知りたかった。ただそれだけの、完全なるエゴだった。  それなのに一音は、「お会いできて光栄です」と、ルリ子の真似をするように、三つ指ついて頭を下げた。律が彼を好きになる理由がなんとなくわかって、敗北感を味わった。 「こんな奥地まで大変だったでしょう」 「…いえ」 「何も無いところですが、ゆっくりして行ってください」  ゆっくりも何も、律が出勤してすぐに、彼に内緒で出てきたのだ。彼が仕事を終えて帰るまでには、私も帰らなければならない。 「生憎ですが、この後も予定がありますので」 「そう、ですか…」  律は、本来ならばこういう子がタイプなのだろう。どこか不安定で、守ってあげたくなるような庇護欲をかき立てられる存在。幼い頃から英才教育と質の高い教養を受けて、婚約者も早い段階で知らされて、私はこの人に見合うため、お家柄を良くするために生まれ育てられているのだと早々に理解した。そうやって早く自分の足で立ちなさいと育てられた私とは正反対だ。  そう自覚すると、嫌なことをいろいろと思い出してしまう。そういえばお手伝いさんを雇う、と彼が言ったとき、家のことはぜんぶできるからいいよ、と私は遠慮した。もしかしてあの選択は間違いだったのではないか、とか。会食に行くとき、パーティー用のドレスを見に行こうと言った彼に、母の着ていたドレスがあるからそれにする、と私は答えた。もしかしてあれも素直に行っていたほうがよかったのかも、とか。  ただ目の前に夫の元恋人がいるだけなのに、そんな自己嫌悪に苛まれるほど、私は夫である坂下律のことについて何も知らない。 「あなたと律のことを教えてください」 「…え?」 「唐突に不躾なことを聞いているのは承知しております。でも知りたいんです。あなた方がどんなふうに出会って、どんなふうに別れてしまったのか」  佐倉一音は困ったように、唇を噛んだ。
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