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「なんで泣いていたのかも、俺が夢の中で誰を待っていたのかもわかりません。妻だったような気もするし、やっぱり一音で合っていたような気もする。でも、あれが最期だったんだなって、今はそれだけわかります」
夢は実態のない思いの塊。強い思いが幻覚となって本人に見せる映像だとするならば、"一音に会いたい"と"今の幸せを壊したくない"という独りよがりな思いが形になったのだろう。それっきり、夢に一音は出てこなかった。
3月31日になると、無条件に電話をかけてしまう。誕生日おめでとうと一言だけ言いたかった。でもそれは、約束を守れなかった後ろめたさをそれで解消しようというエゴに過ぎなかった。約束を守れなかったことに対して、一音が怒っているんじゃないか。一音の知らないところで幸せになってしまったことを怒っているんじゃないか。そんな自意識過剰さから俺はずっと過去に執着してしまっていた。
一度でも一音が電話に出ていたら、俺はその後の一音との関係をどうするつもりだったのだろう。会いたいと思ってはいたものの、会えたらその後どうするつもりだったのだろう。実際会いに来た今日だって、何をどこから話せばいいか踏ん切りがつかずにいたのだ。そこまで考えられずに、ただ突っ走っていた。
「…俺と一音では、どっちにしろ幸せになれなかったような気がします」
湯のみの中のお茶が揺れて、反射して映る俺の顔を歪ませた。一音に対する申し訳なさが募る。所詮、その程度の人間なのだ。穴があったら入りたい。
「後悔しておるのか」
「…後悔、…はい、後悔してます」
最初に友だちという関係を壊したのは俺だった。彼の家で一線を越えたのも、一方的に留守電を入れてしまったのも、今思えば何もかも選択肢を間違えていた気がする。
俺と出会わなければ、一音はもっと幸せになれたのではないだろうか。
「なあ律よ」
「はい」
「わしももう先は短いから、老人の戯言として聞き流してくれればええんじゃが」
「…はい」
「一音は、知っとった気がするんじゃ。自分の寿命を」
「え?」
ざぁ、と風が吹いた。庭先の桜の花びらを無情に散らしていく。
「はっきりと言うたことはないが、病が発覚したときも余命宣告されたときも妙に落ち着いておった。死んだら故郷ではなく、この土地に埋めてほしいとも言っておった故、わしはあいつの墓を立ててやった」
「……」
「あいつは歳の割によく泣いて、自分のことを弱いと罵ってはおったものの、芯はある奴じゃったからな。自分の行くべき道を選ぶ人間じゃったから、自分の死に場所さえ自分で決めたんじゃないか思うてならん」
そう言ってお茶をすする源さんの横顔を見ながら、否定できる材料は何も見当たらなかった。むしろ、それが正解だと思った。ただ俺を慰めようとしてくれているだけだとわかっているのに、甘んじて受け入れてしまいそうになる。
出会ったときからどこか儚げで不安定だった一音。もしあの日、父が一音の家を訪れなかったとしても、一音は駅には来なかったのではないか。ちゃんと信じていた。俺は一音と一緒にいる未来を想像して信じていたけれど、一音も同じ温度で同じ未来を見ていたとは言いきれない。彼は俺よりもよっぽど現実主義者だったから、その先にどんな壁が待ち受けているかも、自分がどんな運命にあるかすらも、ずっと前から見えていた。
のかもしれない。そう、思っていいだろうか。
「そうかも、しれません」
縁側で源さんと二人、並んでお茶をすする。庭先にある立派な桜は、さっきの風がもうほとんど散らしてしまっていた。
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