空き家の庭に

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空き家の庭に

 そのソメイヨシノは誰かの忘れ形見のように淋しく密やかに咲いていた。持ち主を失った木造モルタルの二階建ての一軒家。60坪ほどの敷地に申し訳程度の庭と駐車場がある。 カーポートに反射した陽光が、樹齢40年ほどと思われる、一本の桜を照らす。二階建ての二階のベランダの柵の下の方に届くほどに伸びた枝は、男の肩に寄りかかり甘える女の髪のようだ。長い髪が春風に靡き、まるで「一人にしないで」と、外壁のベージュの塗装が色褪せた家に身を預けているように見える。  高校生になった僕は自転車通学の途中で、この空き家を見つけた。門扉もなくカーポートから出入り出来るその家は、高台の麓の田畑の間に置き去りにされたように一軒だけ建っていた。薄紅色の桜が余りにも綺麗で、吸い寄せられるようにその木の側まで歩を進めた。 持ち主を失った家だと気づいたのは、玄関口のドアポストには緑色の養生テープが貼られ、そのテープが剥がれ掛けた所にねじ込むようにポスティングのチラシが乱雑に投函されていたからだ。 何気なくこの家の庭に自転車を停めてサドルに座る。本を読んだり、スマホゲームをしたり、ペットボトルのジュースを飲んだり。僕の秘密基地兼休息場所として勝手にこの庭を使わせて貰うことにした。  第一志望の公立高校に落ちて滑り止めの私立高校にしか行けなかった。第一志望校が同じだった塾で知り合った彼女からは、学校が違うから会えないしつまらないと冷たく振られた。 「何が桜咲くだよ…散ったわ…全部な」 甘く優しい香りを放ちながら、花びらを散らすソメイヨシノの幹。サドルに座ったまま、背を寄せる。すると不思議なことに樹皮がうねり、硬度を変えた。背を伝う、水風船のような柔らかさに驚いて振り返る。 そこには、樹皮に絡め取られて脱出を試みるようにもがく女がいた。いや、幹から魂だけが抜け出ようとする桜そのものかもしれない。焦げ茶色の樹皮の女の裸体が艶かしくうごめく。 背を伝う水風船のような柔らかな弾力は女の乳房だった。顔のようなものも見える。木目が表情になっていて、女は泣いていた。 眉は下がり、伏し目がち。目頭からはとめどなく溢れる涙。唇は何かに対する怒りを堪え、噛むようにきつく結ばれている。  ―僕は桜が嫌いだ―  ―桜を好きなのはきっと成功者だけだー  ―僕は負けた、桜なんか消えてしまえー  焦げ茶の樹皮を指先で撫でる。感触は植物のそれではなく、人肌の温もりと滑らかさを保ち、唇からは微かに人の吐息が漏れている。 自転車のサドルに腰掛けていた僕は、邪な思いを浮かべて、窮屈そうにサドルと学生服のズボンの隙間を縫うように隆起するそれを持て余した。 ゆっくりとサドルから立ち上がり、この空き家の周辺を注意深く観察する。田畑の世話をする農家の人もいない。郵便や宅配便の陰もない。 そして、もう一度桜の化身の女を見つめた。女の顔は怒りを堪える顔から深い悲しみを刻み憂いを帯びた顔に変わる。僕が真新しいローファーで一歩にじりよると、この世の終わりを目にした人間が発するような絶叫と悲鳴が聞こえた気がした。  ー所詮ただの木じゃないかー 僕は人目を気にしながら、桜の化身の女の身体を蹂躙した。成功者の象徴の桜を犯す事で、ままならなぬ挫折続きの自分の人生の鬱憤を晴らしていく。 アニメや漫画のキャラクターにいるような褐色肌より、更に色が濃い茶色の肌を手で弄ぶ。太ももと太ももの間には、木の節で出来た穴があった。枝になり損ねた木の節目は女のそれだろう。 経験がないから正確にはわからないが、グミとマシュマロの中間のような弾力を指でなぶると、僕の中の良心も倫理も全てが塵のように春の突風に吹き飛ばされた。 僕の復讐、ただの腹いせの八つ当たり。 腰を強く打ち付ける度に、桜の化身の女は、薄紅色の花びらを涙の代わりに散らした。 ーいい気味だ、成功者の証の桜なんて消えろー 枝をざわめかせる風の音は、女のすすり泣きに変わっていた。苦渋に満ちたその声は僕の劣等感を解消し、この得体のしれない樹皮製のモノを、女として扱うのに最高の効果音だった。 荒い息と共に果て、鬱陶しく涙を流す樹皮の女の顔を拳で殴り付けた。木の節目から白く濁った不純物を吐き出して泣く桜の化身。  甲高い声で僕は桜を嘲笑いながら、真新しい制服のズボンのジッパーの中に、落ち着いたそれを仕舞おうと引き抜こうとする。 ところが、女の柔肌だった桜の化身が突然木の幹の固さに戻っていた。そして、幹の上から覆い被さるように枝が腕のように伸びてくる。女の枝の腕は僕の首を締め、両腕を吊るすようにゆっくりと持ち上げた。 そして樹皮が内側の逆向きに剥がれるように、僕のそれを無数の刃が中から突き刺す。おろしがねで擦り下ろされたような激痛。今度は僕が世界の終わりのような絶叫と悲鳴を上げた。 「許さない…」 初めて女の本物の声を聞いた気がした。 そして締め上げられた首の圧迫感と苦しさで僕は意識を失っていた。 気がつくと、僕は桜の幹の中に押し込められいた。隣にはあの女がいた。そして肩が凝るような鈍い痛みで上を見上げると、そこには僕自身がぶら下がっていた。 ロープで首を吊り、真新しい制服のズボンを排泄物で汚した、無様な遺体。赤茶色の新品のローファーの皮の色が、幹の中に押し込められた僕の前でだらりだらりと揺れている。 「死にたい訳じゃない!」 狭い幹の中で離れるに離れられずに隣に貼り付くように吸い付く女に猛抗議する。女は春だと言うのに樹氷のような鋭く凍えた瞳で告げた。 「あなたが私の心を殺したの、死んで償って当然よ」 女が声を上げるのと同時に、春雷が轟く。空き家のソメイヨシノの木は落雷で縦に真っ二つに割れて、発火した。乾燥した風のせいで桜は炭になるまで燃えた。 木造モルタル住宅の方は、モルタルの厚みとベランダの素材が金属だったのでボヤで済んだ。  火事騒ぎですぐに少年の首吊り自殺死体が発見された。いつの間にか怖い噂が広がった。 「無限桜って知ってる?」 「桜の化身の女が男を自殺に追い込む奴?」 「そう、それ。空き家の持ち主はね、浮気して家出した夫の帰りを辛抱強く待ってた奥さんらしいよ。もう死んじゃったけど。その奥さんは美しい桜の化身となって現れて男を誘惑する。だけど、その誘惑に乗った男は自殺死体として桜の木に首吊りでぶら下がる運命なの」 「怖ーい。その奥さんっていうか、桜の化身の女はきっと男が心底憎くて嫌いなんだね」 「かなぁ。ずっと待ってた旦那さんだったら殺さないような気もする」 「いや、浮気して家出した旦那さんが帰ってきたら首吊りじゃ済まないよ、遺体は蜂の巣」 埼玉県北部の片田舎。無限桜の怪談は今も静かに語り継がれている。 (了)  
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