プロローグ

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 男の言葉に、今度は優吾の方が唖然となる。自己紹介くらいはフランス語でしようと思ってネットで勉強したときに、フランス語には、男性形と女性形の活用があると知った。  ジャポネは男性形で、ジャポネーゼは女性形だ。つまり、目の前の白いトラさんは、優吾を女だと思ったわけだ。 「てめぇ、俺のどこが女だよ!」  腹の底から湧いた怒りでドスの利いた声を出したつもりだが、細身で170cmちょっとの優吾の声は、猛獣のようにがっしりとして、背の高い男が発する低重音ボイスには程遠い。  若く見られがちなアジア人だが、肌理が細かく繊細で美しく整った優吾の顔は、欧米人から見れば、きれいな女に見えても仕方がないことなのだろう。  だけど、今はタイミングが悪かった。  失恋だけでなく、夢まで失った優吾は、吐露することのできない気持ちを持て余し、律の憧れていた南フランスにまでやってきたのだ。  苦しみを吐いている最中に、アクシデントで崖から落ちそうになってヒヤッとさせられるわ、女に間違われて腹が立つわで、優吾のなけなしの理性が失われ、とにかく誰にでもいいから当たり散らして、憂さを晴らしたい気分に駆られた。  その衝動を抑えきれず、優吾が男の前で中指を立てて日本語で言い放つ。 「俺を女にするのは、お前には無理だな。白変種の獣らしく、雌のトラに乗っかればいい」  フン! どうせ内容なんか分かるもんかと起き上がり、ジーンズについた土や草葉を払い落す。  抱かれるなら、律が良かったとふと思う。  未練がましくて自分で自分が嫌になるけれど、未経験のせいなのか、それとも周りに男っぽいのがいなかったせいなのか、体格的には優吾とそう変わらなくても、バンドを率いる律が頼もしく思えて憧れていたのだ。  歩き出そうとした優吾が、背中に殺気を感じて振り返ると、唸るような低い声が浴びせられた。 「お前のどこがオスだよ。俺にはメスにしかみえないぞ」  にやりと笑ったその男の口元から牙が覗きそうで、優吾は一瞬ブルッと震えてしまった。 「勝手に言ってろ!」  気圧されたことを隠すために相手を睨みつけ、それからくるりと方向転換をして、アンチーブの街へと歩き出す。  何がメスにしか見えないだ! バカにしやがって。  怒りで湯気がでそうな頭に、ふと疑問が湧いた。  どうしてあいつが喋った言葉に対して、捨て台詞を吐けたのだろうと。  遅まきながら理由が分かった優吾は、走り出したくなった。  あいつ、日本語をしゃべった。  やべっ。助けてくれた相手に、獣だの、メスのトラを相手にしろだの、とんでもないことを言ったのを知られてしまった。  ともすると震えそうになる脚に、しっかり歩けと喝を入れ、優吾はわざとドスドス草地を踏みしめながら歩いていく。  追い風に乗った男の低い笑い声が、嘲笑うように優吾の耳元を掠めていった。
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