プロローグ

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プロローグ

 海岸沿いに高くせり出した丘の上に立ち、谷崎優吾は崖下の岩肌に打ち付ける白波を見つめた。  日本のダークブルーとは違う明るいブルーグリーンは、まさにパンフレットで見た通りの地中海の海の色だ。 だが、高所からうねる海岸を見ていると、めまいがして、吸い込まれそうになる。  一歩踏み出せば、洗濯機に放り込んだ衣類のように、こびりついたあいつの思い出を洗い落とせて、さっぱりできるんだろうか? 「いや、俺、泳げないしな」  それにこの高さから落ちれば、水面もコンクリート並みの固さになると聞く。溺れる以前の問題か。  パスポートは借りた部屋に置いてあるから、今は優吾が誰であるか確認できるものは、何も身に着けていない。  波にさらわれることなく死体が上がったとしても、知人もいないこの外国では、身元が分かるまでにかなりの日数がかかりそうだ。  そう思ったら、急に心細くなってきた。  ホテルに泊まっていれば、警察からの問い合わせに、フロントが戻らぬ客の名簿を差し、すぐにでも照合でき可能性がある。  でも、優吾が借りたのは、7月の混む時期に、たまたまキャンセルがあった賃貸マンションの2DKの部屋だ。バカンスで長期滞在する者に向け、留守中のオーナーが個人の部屋を貸し出すものだった。  観光地の数多くある不動産屋に、手が回るのはいつになることか。その間自分は、どこにどんな風に保管されるのかと空恐ろしい光景が浮かびそうになり、頭を振って遮った。 「バッカみてー。何も南フランスまで来て、ドッボ~ンもないよな」  真下の白波から右側へと視線をずらすと、すぐ近くにヨットハーバーがあり、お金がかかっているんだろうなと思うスタイリッシュなヨットが鈴なりになっている。その向こうに城壁に囲まれたアンチーブの街並みが見えた。  確かピカソが大きな作品を手掛けるために借りた貴族の館があって、今ではピカソ美術館になっていると聞いた。 偉大なアーティスト。名を後世に残すような‥‥‥それに比べたら、優吾たちがやってきたことは、おままごとに過ぎないのかもしれない。  必死になって積み上げた砂の山は、後からやってきたロックバンドのガキどもに跡形もなく蹴散らされ、心の中まで踏み荒らされた。  ライトを浴びたステージの映像が頭に浮かび、一瞬エレキの甲高い響きが聞えたと思ったら、真上を旅客機が通り過ぎ、左側に見えるニース空港へと飛んでいった。  こんなにすぐ目の前を横切る飛行機を見るのは初めてだった。じっくり見たい気持ちはあるのに、海と同じくらい青い空に浮かんだ翼のマークは、盛り上がった涙で見えはしない。
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