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エピローグ ただいま、澱んだ夏の贈り物
「……ハッ、ハッ」
ズキンズキンとこめかみの辺りが脈打っているのを強く感じながら、俺は振り上げた片足をそっと下ろした。
(なんだ、今の?)
自分が引き起こしたことなのか、まともに考える余裕すらない俺は荒い息を繰り返す。
それよりも……と俺は数秒前まで飛び越えるつもりだったはずの古木をそろりと跨いだ。
(意識を失っただけみたいだな)
力が抜けたようにぐらりと倒れた甲斐尚人(そいつ)のところへそろりそろりと近づく。
意識を手放す際、一緒に河原へ落ちたスマートフォンの液晶光に血濡れたナイフの刃先がギラリと浮かんだ。
「一応、な」
念のため、俺は土手下の林の方へナイフを蹴り飛ばしてから、そいつの顔をまじまじ見下ろす。
(紫斑病? いや単に内出血してるだけか?)
微妙なスマホの明かりの中でも血の気の失せた顔や腕、見える範囲にところどころ打ち身をしたような跡。
(まさかだとは思うけど、血液が凝固しにくくなるようビタミンKの摂取を控えてたとかじゃあねえよな?)
いくら試験とやらのためであったとしても、そこまでやれてしまえる感覚に俺は空恐ろしいものを感じる。
微かに胸が上下しているのを確認してから俺はその場を離れた。
この後、何をどうするかは俺の中でもう決まっていた。
せっかく落ち着いてきた息を荒げながら、ザッザっと土手上へ上がるための石段を探し俺は河原をひた走る。
そうする傍ら、痛む前腕を無視してぐっとポケットに手を突っ込んだ。
俺は、スマホを握ろうとするだけでも痛みを訴えてくる傷口に奥歯をかみしめる。
そして、やっとの思いで抜き出したスマホの画面上に指を滑らせた。
通話履歴を開いた俺は、真っ先に自分の位置情報をSMSで「ある人物」に共有する。
『もしもし鏑木ですけども、急にどうしたんだい? 確か今晩は花火を見に……とかじゃなかったのかな?』
送信済みになるのももどかしく、俺は共有が済んだのを見て取るとすぐにその番号へコールした。
「警部補さん、今は黙って送ったリンク先の場所に来てもらえますか? できれば他の警官の人も連れて」
『何が、あったんだい?』
間髪入れず要件だけを伝える俺に、ただ事でないものを感じ取ったらしい警部補さんの気配が変わる。
すいません、今は行かなきゃいけないんで。その、後でいくらでも話はしますから。……たぶん、犯人がのびてます」
「いやね、緊急なら駆け付けられるけども。……え、犯人? あ、ちょっと彩人くん!?」
俺は「頼みました」とそれだけ言って、静止する警部補さんの呼びかけを振り切り通話を切った。
そうして、見つけた石段をもたつく身体で上っていく。
ちらと見えた時刻によると、そろそろ花火大会も最後のプログラムに入る頃。
それを示すように、東の夜空を連続して大輪の花火が彩りだす。
「ぜえ、はあ」
幸いと言っていいのか微妙なところだけど、まだ足の関節は動いてくれる。
国道に出てみるとさすがに物見客の大半は海岸に出ているのか、すれ違うような人はほとんどいなかった。
もう腕に力を籠めることすらおっくうとなっている俺は、だらりと体のわきに両ワンを下げたまま会場への道のりを急いだ。
すっかりと傷口はふさがり瘡蓋になってるっぽいけど、本来であれば一刻も早い消毒と処置が必要なところ。
せめてもなのは、縫うような裂傷にはなってないだろうということくらい。たぶんだけども、
俺は会場手前の横断歩道で、信号が青になるのを足踏みしながら待つ。
ちょうど切り替わったタイミングで、打ちあがる花火もクライマックスに入ったのかよりいっそう夜空を乱れ舞う。
「どこ、だ?」
出店前に立ち止まり花火を見上げる人の間を縫い、俺はきょろきょろと妹達の姿を求めさまよう。
「あ、兄さんやっと見つけた! 来てないのかと思ってたよ」
そんな風に、途方に暮れかけていた俺の背後から探し人の声。
「全く、何やってたんだい? チャットも返してこないで……」
それに追随するは、聞きなれた幼馴染の呆れたような声。
俺がバッと振り向くと、立ち尽くす人の間を「ごめんなさい」とかき分けこちらへやってくる二つの影。
(とりあえず、二人とも無事みたいだな)
俺は内心ほっと息をつきながら、さりげなく前腕を背中に回し隠す。
まあどうせ、すぐにバレることになるんだろうけどさ。それにさっきからずっと絶えずスマホのバイブレーションも鳴ってることだし……
これから自分を待っているであろうゴタゴタに嫌気がしそうになるけども、
今だけはせっかく間に合ったんだ。
冬華さんが場所取りでもしてくれてるところへ「こっちこっち」と案内しようとする妹達に従い、俺はひと夏の夢に加わることにした。
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