今、葉が残るだけ

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「最後にもう少しだけ、お話をしていこうよ」  サクラが眠る前日、彼女は病室を去ろうとした僕をそうやって引き留めた。  数秒前まで、僕は逃げるように病室を去ろうとしていたが、その言葉にはそんな僕の足を止めるだけの力があった。特に「最後」という単語には、気味が悪いほどの哀愁が込められていた。  実に穏やかな夜だった。照明が付いていない病室は薄暗く、窓から見える桜の木が月明かりに照らされて輝いているかのようだった。きっと、もっと花びらが付いていたら、今よりも何倍もその夜桜は美しかったのだろう。だが、その日に見た夜桜は、病室内に蔓延した寂しさを引き立たせるだけで、とても美しいもののようには見えなかった。 「私ね」と言いながら、サクラはそっと自分の頭に触れた。「本当は脳みそを新しくして春以外の季節を生きてみたかったの。だから、数日前に君に言ったことはほとんど嘘だったんだ」  それを聞いても、僕はさほど驚かなかった。あの日の言葉が嘘だったということくらい、彼女がそれを口にした時から知っていた。 「それくらい、わかってるさ」  自暴自棄になっていたんだろ、と僕は彼女に問うた。それでも、「だから脳みそを提供するなんて馬鹿な真似はやめた方がいい」なんて言葉が口から出ることはなかった。 「ううん」だが、彼女は首を横に振った。「私はずっと冷静だったよ。冷静に考えてこれが一番いいやり方だって思ったの」 「わからないな」と思わず僕は零した。「自分の脳を誰かに与えることがどうして一番いいやり方なんだ?」  僕がそう尋ねると、彼女は穏やかな笑みを浮かべながら答えた。 「だって、春しか生きられない脳みそなんて、使い物にならないもの」  固く握られた彼女の拳で、彼女は桜色の頭部をコツコツと叩いた。 「閉鎖的な人生だったよ。ずっと、意識のない間はずっとベッドで眠っていて、春に目が覚めてもいつ意識がなくなるかわからないから退院することなんてできない。だから私は、春以外を知らないどころか病室の外がどうなっているかもわからない。だから、ずっとこれが続くくらいなら、君にこの脳みそを挙げて、私は永い眠りについてしまうのが最適解だと思わない?」  彼女の問いかけに僕は何も答えられなかった。屈託のない道徳心と薄汚れた自らの欲望が僕の思考を極限まで滞らせていた。 「安心して」と何も言えない僕に向かって、彼女は笑う。「私はこの孤独な病室の中で、君に思い出をもらった。私にとって、君とこの部屋で過ごした十三年はかけがえのない青春だったの。私はそれを君に返すだけ」  だからね、罪悪感なんて感じる必要はないの、と彼女は最後に言った。 「あ――」  ありがとう。そう言おうとしたところで、ちょっと待て、と頭の中で声が響いた。  お前は本当にそれでいいのか、と僕の中の僕が問う。自分が少し春を生きられないくらいで、大切な女の子から春を奪うのか? 考えてもみろ。春だけを生きられない自分よりも、春しか生きられないサクラの方が何倍も完ぺきな人生が欲しいに決まっているじゃないか。それなのに、お前はそんな女の子の優しさに甘えてまで、春を生きられる身体が欲しいのか? それ以前に、本当なら人生を四分の一しか生きられない彼女にお前が脳みそを与えてやるのが、最適解なんじゃないのか? 青春が病室の中にしかなかったのは、お前も同じだろ。 「……」  しばらく黙り込んだまま、僕はサクラに返す言葉を探る。 「……」  風が吹いて、窓の向こうにあった桜の木から花びらが一枚散った。残る花びらがあと二枚だった。 「……」  再び風が吹いて、桜の花びらがもう一枚散った。たった一枚の花びらが夜風に流されながら、剝がれまいと必死に木の枝にしがみついていた。  そこで、ようやく僕は口を開く。 「……君の脳は大切に使わせてもらうよ」  僕がそう言うと、サクラは満足げににっこりと笑った。  三度目の風が吹いて、いよいよ全ての桜の花びらが散った。その瞬間、サクラはこと切れたように、意識を失った。  結局、最後まで僕は自分の欲望には勝てなかった。  後日、脳の部分移植の手術は無事に成功し、僕は晴れて春を生きられない身体から解放された。  おかげで、僕は一年後、初めて春という季節を迎えることになった。  そして、春を舞台に満を持して満開の桜を見たとき、奇妙な違和感が僕を取り巻いた。あれだけ見たがっていたはずの満開の桜を見たはずなのに少しも心が動かされることはなく、代わりに強烈な束縛感を脳で感じたのだ。  違和感の正体はすぐにわかった。おそらく、脳の部分移植の弊害だ。  サクラの脳の一部を脳に移植したせいで、僕はどうやらすっかり桜が嫌いになってしまったらしい。  皮肉にも、今はただ、桜が散るのが待ち遠しかった。
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