今、葉が残るだけ

1/6
前へ
/6ページ
次へ
『桜の子』に出会ったのは、もう何年も昔のことだった。  六歳の誕生日を迎えてまだ間もない頃、僕は真っ白な病室で目を覚ました。  およそ二ヶ月ぶりに開いた瞼のせいで、眼球は光に慣れていない。そのせいか、意識が無くなる以前よりも外の世界が色彩豊かに見えた。  ベッドから身体を起こし、周囲を見回す。広々とした部屋に大きなベッドが置かれているこの部屋には、どうやら僕以外の生き物はいないようだった。  温かな青空に引き寄せられるように、窓の方を眺めた。窓枠で切り取られた外の世界には、手が届きそうなほどすぐ近くに巨大な桜の木が聳えていた。  五月上旬ということもあり開花の時期が過ぎ去ってしまったせいか、もうその木には数枚の桜の花びらが引っ付いているだけでもう丸裸も同然だった。  六年間生きてきて、僕はこの桜が満開になった瞬間を一度も見たことがなかった。  桜が悪いわけではない。どちらかと言えば、悪いのは僕の身体の方だ。  僕の身体は生まれつき春という季節に弱い。原因は春特有の気圧や至る所に舞っている花粉のせいらしいが、幼い僕にはいくら説明されてもよくわからなかった。  ただ一つ言えることとしては、僕の脳は春になると一時的に休眠状態に陥ってしまう、ということだけだ。そうなってしまうと、ほとんど脳が死んでいるようなもので、食事や会話をするどころか、意識を保つことすらできなくなってしまう。  だから僕は、春という季節をよく知らない。  枕元に設置されているナースコールを押す前に、ありとあらゆる管が纏わりついている身体を動かす。重力をつば競り合いで何とか征し、ベッドの外へと這い出ると地面に足を付けて立ち上がった。  一瞬の立ち眩みの後、身体は徐々に数ヶ月前の感覚を取り戻していき、まるで支柱でも添えられたみたいに真っすぐになった。  目線の位置が高くなった影響で、先ほどまでは見えなかったものが見えるようになり始める。窓枠の中にあった景色がまるで絵画が一人で動き出したみたいに様子を変えて、灰色の駐車場が目に飛び込んできた。  昨日に雨でも降ったのか、くすんだ色をした駐車場の上にはいくつかの水溜まりがあった。水色の小さな海には何枚もの桜の花びらが浮かんでいる。それはまるで僕が今まで取り落としてきた春の思い出のようで、それを見るたびに僕は散っている桜の花びらが嫌いになっていった。  人生で一度でもいいから満開に咲いている桜が見たい。数ヶ月ぶりの目覚めは、毎度そんな感情と共に訪れる。  しばらく窓際で立ち尽くしていると、病室の扉が開いて一人の若い女性看護師が姿を現した。  彼女はベッドから立ち上がっている僕を確認した瞬間、驚いたような、安堵したような表情を見せた。彼女はすぐに医者を呼びに行ったようで、僕はまた大きな病室で孤独に耐えなければならなかった。  数分後に駆け付けてきた老医は僕の身体にべたべたと触れて簡単な検査をしたあと、「よし」と呟いてにっこりと笑った。  どうやら、春が過ぎ去ったおかげで、身体に異常はなくなったらしい。  次の日から、僕はリハビリに駆り出されることになった。  とはいっても、行ったことと言えば自分の背丈の倍以上もある点滴台を片手に院内を練り歩いたくらいだった。僕があまりにけろっとした顔で歩くから、付き添いをしてくれた若い女性看護師も特に気を張っている様子はなかった。  最終的に彼女は僕が病室に入るのを見届けることなく他の業務に移ってしまったから、僕は一人でとぼとぼとした足取りで病室に戻ることになった。  スライド式の扉を開いたとき、僕はその微量な違和感に気が付かなかった。その病室は、あまりにも僕の病室と部屋の構造が酷似していた。  そこが自分のテリトリーではないことに気が付いたのは、すっかり病室の奥にまで侵入してしまったときのことだった。  ベッドの上には先客がいた、という表現は正しくない。彼女はただ、居るべき場所に居ただけなのだから。 「誰?」  初めにそう訊いたのは、部外者である僕の方だった。  ベッドに足を伸ばして座っていた僕と同じくらい幼い少女が、キョトンとした顔でこちらを見ていた。  僕としばらく見つめ合った後、彼女はこう答えた。 「私は桜。春の桜」  開け放たれた窓から風が吹き、ふわりと動いたカーテンの隙間から一枚の桜の花びらが病室の中に舞い込んできた。桃色の花びらがひらひらと踊りながら、彼女の桜色の髪に同化した。  そこにいたのは、『桜の子』だった。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加