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序夜
私の郷里は陸奥にある。
陸奥地方の一角、人里離れた山深いところに建てられた、ガワだけ大きな平屋家屋。戦後の農地改革前までは多くの土地をせしめて地元の大地主として威風を放っていた。それも所詮は過去の栄華である。改革後も、先祖の遺産や残った土地を切り売りしてそれなりに裕福な暮らしをしていたが、土地価格が暴落したいまとなっては地主という肩書も飾り物。
子どもたちもみな上京し、あの家に残るは私の母、相良ミチ子ただひとり。
──その母が亡くなったと報せを受けたのは、今朝がた五時半ごろのことだった。
取るものもとりあえず帰省した。
報せを寄越したのは、母の面倒を見ていた住み込み使用人の原田だった。
昨夜は元気なようすだったが、五時起床の母が起きてこなかったことを不審に思い、声をかけに行ったところ眠るように死んでいるところを発見したのだと、彼は涙ながらに電話口で告げた。
死因は心不全。
老衰だと結論づけられた。
無理もない。彼女はもう八十五をとうに過ぎていたのだから。
山を登っておよそ十五分。
『相良家』と書かれた表札を横目に、あわただしく邸内に入る。
土間には、この家には見慣れぬ革靴がひとつ。
中に入ると使用人の原田が小走りで出迎えにあらわれた。
──弁護士先生がいらしています。
公正証書遺言書があるという。
弟妹たちの到着を待つと言ったら、彼らはWebカメラを通して話すと回答したらしい。実母の死を前にしてもこんなものである。
客間に入った。
座布団の上で正座する男が、こちらを視認するなり立ち上がった。長身の男である。
スクエア型銀縁眼鏡の奥に覗く切れ長の瞳と、高く尖った鼻。うすい唇を固く結ぶ表情はどこか神経質にうつる。彼が弁護士であることは疑いようもない。
卓上にはモニターが設置され、画面にはふたりの壮年男と女の顔が映っている。十数年ぶりながらその顔はすぐにわかった。ふたりの弟と末の妹。彼らはいずれも陰鬱な表情を浮かべている。
男は名刺を取り出し、
──弁護士の剣持と申します。
と名乗った。
生前の母が遺言書作成にあたり懇意にした弁護士だ、と原田から説明があった。
剣持の手には茶封筒が一通握られている。
恭しく封筒を開き、手紙を取り出す。
──読み上げます。
弁護士は重々しい口調で言った。
「第一条 遺言者は、相良家当主の座を、長女 春江に託す」
言葉はつづく。
「第二条 遺言者は、遺言者名義の預貯金及び資産すべてを、孫娘 冬陽に相続させる」
瞬間。
モニターから罵詈雑言が響く。
言葉はまだ、つづく。
「第三条 遺言者は、童子守の任に、孫娘 冬陽を任ずる」
言葉は、つづいた。
「第四条、遺言者の葬儀参列者は最小限に留め、導師に東京・宝泉寺、浅利住職を指定する」
嗚呼。
──庇護はまだ続いているのだ。
と、思った。
※
この地域では火葬を先におこなうのが決まりである。
いま彼女のからだは、灼熱の煉獄に焼かれている。
母はもういない。
──護らねばなるまい。
母の遺骨は砂のように細かい塵と化した。
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