第一夜

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「そこで僕は……」 「僕は?」 「まさかの僕が」 「僕が?」 「──恋を」  と、夏目は陶酔した顔でつぶやいた。  同時に茂樹の顔がはげしく歪んだ。 「恋? まさかのって、おまえいつだって女にふらふらしとるやないか」 「今までのとはちがうんだ。とっても淑やかでうつくしい──女性に出会ったんだ」 「はァ」 「オホン。本題はその人とはそれほど関係なくて、おなじ道場内なんだけれど、その人の友人に陸奥出身の女性がいたんだ。そちらもとっても素敵な人だった。きっと僕がその人に恋をしなければそちらの女性に恋をしたかもしれない」 「…………」  茂樹の顔はますます険しくなる。  むかしから、夏目が女性の話をするとこんな顔をする。学生時代に夏目の色恋にかかわるもめ事を、さんざん尻拭いをさせてきたからかもしれない。彼はむかしから人の仲裁に立つのがうまかったからである。  夏目は弁解するように大げさな手振りを交えた。 「そうつめたい目をしないでくれ。話はここからなんだ」 「はァ」 「その陸奥出身の女性はね、名前を冬陽さんと言うんだけれど──どうも出身地がむかしむかしに僕らが旅行したところと近いようでね。シゲは覚えていない? 僕らがまだ青臭い子どもだったころのことだ」 「ああ、岩手の山奥を歩かされたやつか。なんや変な虫に足食われてめっちゃかゆかったんおぼえとるわ──ほんで、それが薙刀使いの主人公となんか絡んでくるんか」  と、茂樹は結論を急かす。  ちがうちがう、と夏目は眉を下げた。 「あのとき立ち寄ったお屋敷があるだろう。うちのだれかが──じいさんかな? が、昔むかしに知り合ったって名士の家。先週、薙刀道場で陸奥出身の彼女と顔を合わせてから僕は……ずっと考えているんだ。なにせ、時の彼方に置き去りにしたはずの記憶を中途半端に引っ張り出してしまったものだから。あの家、なんだか妙なしきたりがなかったかな。おぼえてない?」  という夏目の問いかけに茂樹は閉口した。  沈思黙考する顔を見て、この従弟は自分よりいくつ下だったか──とぼんやり考える。幼いころは一歳違うだけでもお兄さん面が出来たものだが、この歳になれば一歳も二歳も誤差である。中学、高校とあがるたびにすれ違った思い出があるから、きっと三歳差くらいだろうと意味もなく結論づけた。  ふと、茂樹が顔をあげて珈琲を一気に飲み干す。 「座敷わらし」  というセリフを添えて。  聞き慣れぬ──こともない。  民俗学者・柳田國男が著した『遠野物語』では、東北地方に古くから伝わる民話がまとめられている。民話の中には河童やオシラサマ、マヨヒガなどファンタジックなものの存在も語られるが、その中のひとつに『座敷わらし』についての記述がある。  夏目は幻想小説家というわけでもないので、遠野物語を深く読み込んだことはない。ゆえに座敷わらしや河童と言われてもその名を知る程度にすぎないのだが、現代でも座敷わらしがいる旅館としてテレビに取り上げられるところもあると聞く。  いまではすっかりメジャーな妖怪、あるいは神様なのだろう。  茂樹のつづくことばを待つ。  彼はソファー席の背もたれにふんぞり返った。 「たしかあの家、座敷わらしがいてるってことで有名やったんちゃうか。ほら、あの──なんとかっちゅうお役目でもって、座敷わらしのご機嫌とってはるみたいな」 「そこだ!」  夏目は身を卓上へ乗り出した。  そこだった。ずっと喉奥に引っかかった疑問。 「当主となった女は『  』というお役目に就き、何をどうにかする──。この文言だけがずっと頭に残っていたんだよ。でも、そうか。何をどうにかするというところは、座敷わらしのご機嫌をとるってことだったのだね。ああ、ちょっとすっきり」 「まだや。そのお役目の名前がどうも思い出せへん。あー、こんどはオレが気持ちわるなってもうたやんけ! おまえ、親父さんに聞いたらええやん」 「冗談じゃない。こっちから連絡なんかしたくないもん」 「うーん……座敷わらし。わらし……座敷。──ていうか、その陸奥出身のお嬢ちゃんなら知ってはるんちゃう? 聞かへんかったんか」 「むかしの記憶を思い出したのが、帰宅してからだったんだ。嗚呼、こんなことなら連絡先を聞いておけばよかった。なにより大失態だったのは、あのうつくしい女性の連絡先すら聞けなかったことだ。この僕がだよ!」 「はァ。めずらしなァ」 「柄にもなく緊張したんだ。だってあんなに、気品あふれる女性はそういないよ。きっと世が世ならお姫様だったにちがいない。時代が下ってもきっと華族はくだらないね」  と、気が付けば身振り手振りに熱弁をふるう。  唯一の話し相手である茂樹は、早々に耳の穴に小指を突っ込んでほじくりながら、もう片方の手でメニュー表を手に取った。デザートのページを見つめる彼の瞳に興味の色はない。ただ、現実逃避のための行動にすぎないようだ。  夏目は熱弁をやめた。  すると茂樹もメニュー表から顔をあげ、ぐいとサングラスを前頭部へと押し上げるや快活な笑みを浮かべる。 「しかし……たしかに数多の女を落としてきたおまえが、そこまで賞賛する女も気になるわ。名前は?」 「それが名前も麗しいんだ。神に那という字を書いて、かんなさんと言うんだ。まさしく書いて字のごとし。名は体をあらわすとはまことのことだと僕は実感したよ!」 「神に、那──?」  が、茂樹の顔がぴくりとひきつる。  その顔は明らかに心当たりがあることを示していた。夏目はじっと従弟をにらみつけた。 「なんだ。僕らのあいだで隠し事はなしだよ」 「なんやねんそのメンヘラ発言は。いやべつに隠しとるわけやないけども──その神那さんって、苗字言うたか」 「苗字? ああ、言っていたような……でも仕方ないんだ。ファーストインプレッションがさ、まるで春の木漏れ日から姿を見せたヴィーナスのようで、もうほんと、女神降臨かと思っちゃったから。僕としたことが、自己紹介のときに意識を飛ばしてしまっていたらしくって。なんだったかな」 「…………」  茂樹はいよいよ疲れた顔で、胸元のポケットを無意識に漁っている。  指が当たって取り出したのは煙草の箱。であるが、この喫茶店が全面禁煙であることに気づくと、ちいさく舌打ちをしながらそれをふたたびポケットの奥へと押し込んだ。愛煙家にとってはつらい世の中である。  そのまま茂樹は身を乗り出して、夏目の顔に寄った。 「藤宮──神那、っちゅう名前とちゃうか?」 「ふじみや。……」  夏目の脳裏に、あの衝撃のワンシーンが蘇る。  体験入学として道場の門をくぐった直後、道着を身にまとい、石楠花のように凛と伸びた背筋で目の前にあらわれたあの女神──。彼女はこちらに気づくや柔和に笑んでお淑やかに辞儀をした。数多の女性を見てきた夏目九重でさえ、彼女から沸き立つ香り高い気品と振る舞いを前に、呆然自失となったのである。  もはや顔もよくおぼえていない。  そのまま道場に足を踏み入れ、彼女を前にした瞬間に脳みそは制止した。彼女のさくらんぼのようなくちびるが「────です」と名乗った気もするが、まるで海の底から空の音を聞くかのごとく音が遠かった。しかし、そう。一秒たりとも目が離せなかったあのくちびるが唱えたのはたしかに──。 「ふじみや。そうだ、藤宮と言ったかもしれない。すごいなシゲ! そうだよ、彼女は藤宮神那さんといったんだっ」 「あ、っそう……」  なんという奇跡か。  まさか、思いもよらぬところから彼女の情報を聞くだなんて。しかしとなるといささか気に入らぬ。なぜこの従弟が藤宮神那の名を知っているのか──。
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