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二年とはいえ、竜の気を受けては寝込んでいたせいで三分の一は記憶にないから余計に時が過ぎるのが速く感じるのかも知れない。最近は随分耐性がついて、気が全身を巡っても丸一日眠ることはなくなった。同時にリュシオンが感情を昂ぶらせた時に気が溢れても苦しくなることが減った。
最後の勉強会を終えて成竜の儀式を終えた後に戻ってくると言ってリュシオンは出かけた。いつもは三日ほどだけど、今回は少し長いらしい。
そう、もう僕がここにいる必要はなくなるのだ。儀式を終えれば、本当の番様を求めるはずだから。
今回は多めの気を受けたので丸一日眠ってしまった。リュシオンの部屋は僕が気を受けて眠っている間はだれも入れないように結界が張られているそうだ。いつまでも起きてこないから母や側仕え達が心配しているかもしれない。貫頭衣とズボンを着て鏡の前に立つと、首や胸の見えるあたりにキスされた鬱血の跡が見えた。皆知っていることだとはいえ、少し恥ずかしいので、リュシオンから与えられた薄い布を被った。これはリュシオンの香りがする。この甘く少しピリッとした香りは、竜体をとっているときに匂うのだが、皆はよくわからないという。でもこれのお陰で勉強で国を空ける時の寂しい日々を慰められたから、出ていくときに下賜していただけると嬉しい。
頭から被って首元を隠し、身体に巻き付ける。元々これは高貴な人が人に顔を見せないようにするための布を模倣している。薄いけれど、外からは顔の判別ができなくなるのにこちらからは見えるという優れものでもある。
「おはよう」
僕が起きた時に一度報せの鈴を鳴らしているので、側仕えの誰かがいるはずだ。
「おはようございます。エリー、あの……あちらに――」
部屋を出ると母くらいの年の側仕えが控えていて、言いにくそうに手で訪問者を示した。
組み木でできた広い廊下に何故か椅子が二つおいてあった。廊下は、竜が竜体でも歩けるように広いけれど部屋ではない。そこに男がいた。父が生きていれば同じくらいの男性だ。自室のように寛いでいることにも驚いた。
「後宮なのに……?」
確か男は入ってはいけないのではなかったかと首を傾げた瞬間、座っていた人が嗤う。
「お前も男ではないか」
全くもってその通りだった。
「そうよ、もう男は必要ありません。さっさと出てお行きなさい」
紅い口紅が鮮やかな女の人が、廊下の向こうを指して言う。その瞬間、僕と同じ金色の髪についている髪飾りが音を立てた。着ているものもつけている装飾品も僕なんかじゃ一生手にすることがないような素晴らしいものだ。命じる声に合わせて、僕の周りを囲んだ彼女の護衛が僕を見下ろした。でていかないと言えば、力ずくも辞さないというのが見てとれた。身を引いた僕の横にリュシオンの側仕えが庇うようにして立った。対立は一瞬だった。
「お父様! 何故ここへ……」
僕と一緒にリュシオンに仕えているジゼルが慌ててやってきて僕達の間に入った。
「ジゼル、お前はここで次代様にお仕えしていながらこんな男を後宮に住まわせて報告もなしとは……何をしているのだ」
「エリー、あの方は宰相閣下です」
ジゼルは自分の父をあの方と呼んだ。それだけで二人の間に壁があることがわかった。
宰相と言えば、竜王の代わりに国民を導く立場の人だ。もちろん僕は見たこともないような高貴な人だ。控えなければいけないと膝をついた。
「お初にお目にかかります、エリーと申します」
エーリッヒと名乗るのも後宮でどうかと思い、通称であるエリーを名乗った。頭を下げると、彼は満足したように「うむ」と頷いた。
「そなたが次代様の無聊を慰めていたと聞いている。男であると聞いて驚いたものだが、娶る番様の嫉妬を煽らないように男にされたのであろう。もうそなたの仕事は終わったのだ。次代様には『番に相応しいものを集めなさい』と命じられた。そなたには相応の金子を渡すので、ここを出て自由に生きるがよい」
鷹揚に言い渡す男からは、この国の宰相としての器量を感じた。
「お父様、リュシオン様がエリーを手放すとは思えません。お姉様を番様にされるとおっしゃったのですか?」
「男ではどのみち卵を産むことなどできない。セシルをと望まれたわけではないが、容姿の美しさや教養の深さを考えれば、次代様も頷かれるだろう」
セシルというのがこの女性の名前だとわかったが、容姿や教養の深さでリュシオンが番様を選ぶとも思えなかった。
「あなたが番様となるのですか?」
セシルは僕をチラリと見て、横を向いた。口も聞きたくないのだと表しているのだろう。
「そうです。きっと次代様はわたくしを選ばれるでしょう。髪は美しいけれど、これがわたくしの代わりをしていたなんて……」
チラッとこちらをみた瞳には、嫌悪がまざまざと見えた。でも、何も言う必要はない。彼女が番様としてリュシオンに愛されるとは思えない。
「わかりました。宰相閣下、すぐに出ていきます。でも、あの……この布だけは思い出のよすがにいただくことはできませんか?」
被っていた布を欲しいというと、セシルは呆れたように声を荒げた。
「まぁ! よくその価値を知っていたこと。お前の価値に相応しいものではないわ。それは竜の火も氷も攻撃も防ぐと言われているものよ。国宝に値するものをねだるだなんてあつかましい!」
「お姉様、それはリュシオン様がエリーにと与えられたものです」
セシルの鬼のような目に驚いているとジゼルが代わりに答えた。
宰相を見ると、首を横に振った。
「価値を知らなかったようだが、それは本来番様に下賜されるものなのだ。ただの愛妾が持つには――」
「お父様!」
「ジゼル、いい加減にしなさい。お前には命じていただろう? 姉のために後宮を把握しておきなさいと」
ジゼルはそう言われて、僕を見た。
「ごめんなさい……」
ジゼルが謝ったわけがわからなかった。裏切ったとでも思っているのかも知れない。けれど、誰も間違っているとは思えない。誰もが自分の役割を果たしているだけだ。
「わかりました。知らなかったとはいえ、恥ずかしいことを申しました」
「リュシオン様が帰っていらっしゃるまで、エリーはここにいていいはずです」
ジゼルはそれだけは譲れないと顔を強張らせながら宰相に訴えた。
宰相も困ったような顔になる。
「だが、早くここを番様のために整えねばならぬのだ。『番に相応しいものを集めなさい』とおっしゃったからには、この娘だけでなく貴族の中でも優れた容姿の者達をここにおかねばならぬ。気位が高いそのものたちが、次代様によく仕えたこの男に何かしては困るのだ」
「お父様! 私、あのものの髪で鬘をつくりとうございます」
ああ、こういうことを言われるからかと僕は納得した。ジゼルも白い目を姉に向けている。仲がよくないのはわかった。
「君、すまないが髪をもらうことはできないだろうか」
宰相の額に汗が浮いている。娘が番様になるなら、願いを叶えないといけないと思っているのだろう。
「馬鹿なことを……。リュシオン様がお怒りになるわ」
ブルブルとジゼルが大げさに震えた。
髪は……リュシオンが大事に大事にしてくれていたものだ。簡単に切っていいとは思えなかった。
「お前の母は追い出す予定だったけれど……、そうね、髪をよこすならここで働かせてやってもいいわ」
チラッと見えた頭を下げて控えているものの中に母の姿が見えた。母がここを追い出されるなんて知らなかった。聞いていない。僕がちゃんと町で生活できるようになったら呼ぼうと思っていたけれど、それが本当に可能なことなのかわからない今、母を危険に巻き込みたくなかった。
「わかりました……」
「エリー!」
ジゼルは駄目だと頭を横に振った。
宰相が胸をなで下ろしたのがわかる。サラサラと流れる髪を背中で括ってそれを切ろうと思った。
「もっとよ! 短かったら粗末な鬘になるじゃないの!」
セシルはそう言って、僕が使おうとしていたナイフを奪って首の後ろで切ってしまった。
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