レース前の一幕 ―高まる気運―

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レース前の一幕 ―高まる気運―

 勢いよく開けられた教室後方の扉。そして、そこから現れた長髪の少女。 「いぃちぃのぉせぇ、ちぃはぁやぁっ!」  そして、嬉々とした表情で千迅の名を叫んだ彼女は、いっそ男らしいとも言える「格好良さ」を醸し出している。 「……千迅ぁ。まぁた来たわよ?」 「あんた。アレ、何とかしなさいよね」  恐らくは、男女問わずに振り向いてしまう様な美少女……いや、美しく凛々しい女性であるのに、紅音も貴峰も沙苗も、この教室の誰一人としてその少女に目を奪われると言う事は無かった。視線を向けているのに間違いないのだが、その全てがどこか冷めた……白けた空気を纏っている。 「えぇ……」  勢いとノリだけで言えば、まるでお祭り騒ぎの様な少女だ。そして、そう言った賑やかな事が嫌いでは無いだろう千迅なら、喜んで対応してもおかしくは無い。 「(りん)ちゃんかぁ……。面倒くさいなぁ……」  それでも、水を向けられた千迅でさえこの台詞なのだ。鈴と呼ばれた少女がどれほど面倒な存在なのかは、この一幕を見ても伺えると言うものだった。 「一ノ瀬千迅っ! 勝負よ、勝負っ!」  そんな沈殿している空気など微塵も読まずに、鈴は千迅の下へと近づくとビシッと人差し指をさして言い放った。ここまでの動きは、彼女の風体も相まってまるで某歌劇団の様だ。 「……勝負ってぇ? また、テストの順位ぃ?」  非常に億劫な表情に声音、そしてその動きで、千迅は対照的な気勢を発している鈴に問い返した。もっとも、この時期に鈴が勝負というからには。 「そうよっ! 前回の期末試験では惜敗したけど、今回はそうはいかないんだからっ!」  それしかないのだが。  鈴が肯定した事で、千迅はこれ見よがしに深く溜息を吐き肩を落として見せたのだった。  翔紅学園1年、獅童鈴(しどうりん)。千迅達と同じ中等部からの進級組だが、千迅とはさらに幼い頃からの顔馴染み……所謂幼馴染である。  ただし、鈴は千迅達とは違い自動二輪部ではない。彼女は剣道部に所属している。  中学生、高校生ともなり部活も違えば、活動リズムも著しくズレる。如何に幼馴染とは言え、顔を合わせる機会も減り疎遠となってもおかしくない筈であった。実際そういう理由で、どれほど親しい間柄の存在であっても音信不通となる事はそれほど珍しい話ではないだろう。  しかし、幼少期より何よりも勝負事を好み、何かにつけて千迅を巻き込み勝負を挑んでいた鈴のスタイルは、中等部を経て高等部となった今でも変わりはない。  剣道の腕を買われ期待され、彼女もそれなりに暇ではない筈なのに、何かにつけて一方的に勝負を挑んでは大騒ぎしているのだ。 「うぅん……。それでぇ? 今回は、何を賭けるの?」  当然の話だが、どの様な理由であれ学生が賭け事など以ての外だ。まともにこの事を教員に通告すれば、問題となるのは間違いない。  だが、金銭を賭ける本格的な賭博ならば大事だが、一高校生が勉強の順位で賭けるようなものなのだ。 「え……!? えぇっと……それじゃあ私が勝てば、テスト休みにあんたのバイクでどこかへ連れてってよ。当然あんたの驕りでね」  この程度の賭け事で問題視するような者など皆無だ。  何よりも鈴の言動を見れば分かるのだが、彼女自身も勝負が目的であって賭け事は二の次だったのだろう。千迅に問い返されて戸惑い、僅かに考えて返した答えがこれだった。 「……じゃあ、私が勝ったら鈴ちゃんの驕りだからね」  勝負だ何だと騒いだところで、2人は幼馴染で互いの事を良く知っている。そして何よりも、その仲はどちらかと言えば良好なのだ。……鈴の勝負癖に千迅はややウンザリしているのは確かなのだが。  こうして2人は、その順位を競う事になったのだった。  学生なれば無視の出来ないイベントである定期テストを控えて慌ただしく過ごしている千迅達だが、それよりも更に忙しない日々を過ごしている者もいた。言うまでもなくそれは、週末に日本GPを控えている本田千晶だった。  如何に日本最高峰のレースに参加し、そこで大々的な成績を残している彼女とは言え、その本質は未だに高校生である。学園のテストへの参加は必須であるし、それに対して勉強しなくても良いと言う話ではない。それは、学園内屈指の才女である千晶であっても同じであった。 「それほど長いコースではないけれど、NFRとの相性は悪くなさそうね」  それでも、それぞれを両立させてしまう処が才媛の才媛たる由縁だろう。テストへの不安など微塵も感じさせずに、千晶はすでにコース入りしていた。  レースウィークでは大抵、金曜日がフリー走行、土曜日がタイムトライアル、日曜日が決勝レースの日程で行われる。しかしこれには、移動時間が考慮されていない。  所在地にもよるが、距離がある場合は前日入り……木曜日に移動を済ませているチームが殆どであり、千晶も木曜日の夕刻には現地入りを済ませていた。  因みに当然だが、木曜日金曜日、場合によっては土曜日と休日を申請しなければならないが、そこはモーターサイクル事業を推進している翔紅学園ならばスムーズに取得が可能だった。 「ホンダはパワーがだからねぇ。……それにしても、凄い高低差ねぇ」  スタンドからコースを見渡して、美里が感嘆の声を洩らした。  とは言え、ここからコース全体を目にする事は出来ない。約70mもある高低差でバックストレート方面は見えにくい上に、何よりも所々に視界を塞ぐ樹林や小山が設置されているからだ。  ―――スポーツランドSUGO。  全長3,621mで、テクニカルなコースが特色の国際的サーキットである。  特に特徴的なのは、前述のとおり約73mもある高低差と、複数ある急角度なコーナーであろうか。前回のつくばサーキットよりもストレートは遥かに長く、前走車を躱すポイントは少なくない。  美里の話した通り、こう言ったコースはホンダやスズキと言ったエンジンパワーに定評のあるマシンが有利であると言われている。  尚、美里を含めて今回同行している面々に、テストに関しての不安はない。そして千晶も、そうしたメンバーだけを日本GP参戦にあたってのスタッフとしていたのだった。  高校に所属している以上、マシンのセッティングからメンテナンスまで、全て自分たちで行わなければならない。レースチームの様に専属のスタッフを常駐させているという事は無いのだ。必然として、学業に問題のある生徒や部員は参加させる訳にはいかなくなる。 「……そうね。この高低差をどう攻略するかが最大のポイントになるわね」  既にレースを走っている自分を夢想しているのだろうか。千晶は難しい顔をして美里に答えた。 「そう言えば……千晶がここを走るのって何回目だっけ?」 「……今回で2回目ね」  いつも、近くに居ても余裕を感じられる千晶からそれが伺えず、美里はやや話の方向をずらした質問をした。そして千晶は、短くそれに答えたのだった。  モーターサイクルレースを専属としている者ならば、1年の内に国内のサーキットを複数回走る機会が得られるだろうが、学生である千晶にはそれも叶わない。もしかすればで利用する事も不可能では無いかも知れないが、千晶がそれを行使する筈が無いと美里も理解していた。 「じゃあ、去年が1回目ね。あの時の順位は5位入賞だっけ?」 「ええ、そうね。でも今年は、あの時よりも良い走りをして見せるわ」  初めてコースを走るとなると、慣れるだけでも相当の時間が掛る。ましてやレースともなれば、殆どぶっつけ本番と比喩しても間違いではない。  それでも5位に入賞する処は、本田千晶が非凡である証でもあるのだが。 「それじゃあ今年は、表彰台を期待出来るって事ね?」  ニッと笑顔を見せて軽口を叩く美里に、千晶もニッコリと微笑み肯定して見せた。  一口に表彰台と言っても簡単な話ではない。周囲にはプロのライダーが(ひし)めいており、上位に食い込むだけでも至難なのは間違いない。  それでも、千晶は出来ない事を認めたりはしない性格だ。それを知る美里は、彼女の応答に安心と心強さを感じていたのだった。 「でも……前日にここに来れただけでも、随分と気持ちが違うわね。コースを見れて良かったわ」  それは言外に、ここで見るべきものはもう無いと言う意味を指していた。そして美里は、違う事無くその意図を汲み取っていた。 「それじゃあ、明日からに備えてホテルに戻りますか。今日くらいはゆっくりしないとね」 「ええ……そうね」  殊更に明るく口にした美里へ、千晶も笑みを浮かべて応じたのだった。
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