高まる気運

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高まる気運

36 高まる気運  明らかにそれと分かる挑発的な気勢を発しだして、その雰囲気に見合った表情を浮かべた千迅が亜沙美を見つめている。そしてそれに、亜沙美と紅音は気付いていた。もっとも、千迅本人にそれを隠すつもりがあるのか、それどころかその様な面持ちとなっている事に気が付いているのかどうかさえ疑わしいのだが。 「あの……。千迅さん……でしたっけ? ……何か?」  そして、当事者である亜沙美がおずおずと質問を投げ掛けた。  誰に対しても等し並みに接する亜沙美は、言葉遣いも普段は気遣われていない場合が多い。敬語を使うと言う意識が希薄とでも言おうか。  しかしこの時に関していえば、彼女は千迅の得体の知れない勢いに気圧されていたと言っても良い。だから、同い年にも拘らず丁寧な言葉遣いとなったのは本能的なものだろうか。 「うぅん……別に。でも亜沙美ちゃんって……速いでしょ?」  そんな亜沙美の心情などつゆ知らず、千迅は自身の疑問を口にした。と言ってもそれは、殆ど断定的なものであり、その顔は自身の発言に何ら疑いを持っていない。 「……どうしてそう思うのかしら?」  精神的に圧されていたのは刹那、すぐに平静を取り戻した亜沙美は、低く抑えられた声で問い返した。  そして今度は、その場にいる全員が息を呑み身動ぎさえ出来なくなってしまっていたのだった。何故なら、今度は亜沙美の方からその場にそぐわない気配が噴き出していたからだ。 「ううぅん……何でって。……何となく?」  しかし唯一の例外である千迅は、亜沙美の圧力を特に気にした様子もなく考え込んだ後、にっかりと笑みを浮かべてあっけらかんと答えたのだった。それはまるで、亜沙美の発した気勢に気付いていない風情さえある。……もしくは、臆していないのか。 「ちょっと、千迅。そう言う聞き方は失礼だわ」  だがそのお陰で、それまで亜沙美の気力に呑まれていた者達も再始動を果たす事に成功していた。千迅の発言を、紅音が少しだけ厳しい口調で咎めた。  当の亜沙美は、千迅の質問に対して当否を示さず、ただ千迅を見つめたまま沈黙を保っていた。もっとも、それは当然かも知れない。普通に考えれば、当人では答えにくい質問である筈なのだから。 「……多分、ここにいる誰よりも速いと思うよ。……この娘がボクの知る人物と同一ならね」  だからと言う訳では無いだろうが、千迅の疑問に答えたのはこのみだった。全員の意識が、このみの方へと向けられる。 「ボクたちと同年代だからまだ日本のレース経験は少ないと思うけど、木村=ヴァルヌス=亜沙美……。ヨーロッパのバイクレースU15で何度も優勝してタイトルも取ってる」  明かされたネタばらしを聞いて、先ほどとは違う沈黙にこの場が覆われた。貴峰と沙苗、裕子と鈴は驚きと畏怖の余りに声が出せずにいたのだが、紅音は明らかに鋭い目つきとなり亜沙美を見つめている。そして千迅はと言うと、先ほどよりも挑戦的……と言うよりも好戦的な気配を醸し出している。  ただしだからと言って、この場で何がどうなると言う訳でもない。彼女達はライダーであって格闘家ではないので、ストリートファイトを起こすなどと言う非常識な事をする筈もないのだから。  このまま誰も、何も口を開かなければ、亜沙美はこの場を去って行ったかも知れない。 「でもあんた、日本で同年代のライダーに興味ないだろ?」  このみのこの一言が無ければ……だが。  このみの問い掛けを受けても、亜沙美には一切の変化もない。寧ろ、先ほどよりも平静を取り戻したようにも見える。  逆に騒然としたのは紅音達だった。紅音の表情に変化は無く、千迅の雰囲気も変わりない。ただし剣呑な空気を纏いだしたのは、貴峰と沙苗、そして何故だか鈴だった。因みに、裕子は先ほどから体を小さくして無言を貫く平常運転だ。 「興味も何も、日本のライダーの事なんて殆ど知らないもの。日本GPは何度か観戦したけど、そこで出場している選手たちと争える訳ではないし、新人戦ではまだF.L.Tしか行われていないんですから」  それに対する亜沙美の返答は、聞いてみれば至極当然の話だった。 中等部で名を馳せた人物は何人かいるが、高等部でのレースに参加した1年生は皆無に等しい。当然、大々的に注目される選手もそれほど多くなく、千迅と貴峰、沙苗も然程注目している同年代の選手などいなかったのだから。  それでも探せば、バイク情報誌に名前の載る全国レベルの選手はいただろうし、紅音などはもしかすると知っているかも知れない。事実、このみは亜沙美の事を知っていたのだから。 「……それに、私と同学年で日本に見るべき選手がいないのは事実でしょう? 同じ年の日本選手で初めて興味を抱いたのは、新人戦F.L.Tでコースレコードを出した米田裕子選手だけね」  そしてあっさりと、このみの言を認めたのだった。そして再び、裕子へと視線を向けた。亜沙美に見つめられて、裕子は更に体を縮こませる。  亜沙美の言い様に何らおかしい処は無いのだが、これは聞きようによっては紅音達への挑発にも受け取れる。……いや、少なくとも紅音達はそう捉えた様だ。 「……随分な言い様ね。それなら、その新人戦で……」 「やっぱりっ! やっぱり速かったんだねっ!」 「……ちょっと、千迅」  鋭い視線を向けて紅音が啖呵を切ろうとするも、それを途中で千迅に遮られ、紅音が呆れた様に嘆息したのだった。  本来ならばもう少し強い語調で窘めてもおかしくない状況だろうが、紅音は千迅の性格をよく知っており、千迅は紅音の想像通り亜沙美の言葉を聞いても何ら機嫌を損ねず、それどころか更に闘志を燃やしていた。  ただし、この場合はこの千迅の性格が功を奏する。先ほどまで留まっていた険悪な雰囲気も、彼女の一言で吹き飛んでしまったのだ。 「……もう、千迅はそればっかりね」 「仕方ないわよ。千迅の頭の中は、レースの事しか詰め込まれていないんだから」 「そうねぇ……。でも、それでこそ千迅とも言えるんだけどね」  沙苗が呆れ、貴峰が苦笑し、鈴が首を縦に数度振って納得した。見れば、裕子とこのみも微笑んでその様子を眺めている。  千迅の行動、その1つで場の空気が変わった。会話の輪の中に加わっていない亜沙美も、その変化を外側から具に感じ取っていた。 「へぇ……。千迅、あなたがこのグループのリーダーなのかしら?」  そして、内情を知らない亜沙美がそう感じるのも無理からぬ事でもあった。  グループを纏めるリーダー格には、様々な素養が求められる。実力、統率力、指導力……。そして時には、チームの中心でムードメーカーの役割を果たす者もいる。  紅音達の実力を知らない亜沙美は、千迅の一言で空気が変わるのを目の当たりにしてそう考えて口にしたのだが。 「ちょ……ちょっと、冗談じゃないわ! 千迅が私たちのリーダーな訳ないじゃない!」  真っ先に亜沙美へと噛みついたのは、誰あろう紅音であった。彼女にしてみれば、千迅の後塵を拝するなど勘違いであっても耐えられなかったのだろう。  突然矛先を向けられて、思わず亜沙美は後退りそうになった。それほど深く考えての発言ではなかっただけに、紅音の反撃は彼女の予想外だったのだ。 「あ……ごめんなさい。あなたがリーダーなのね?」  だから、亜沙美は素直に自身の発言を訂正した。無論、この言葉にも他意はない。 「え……と……。べ……別に私がリーダーって訳じゃ……」  面と向かいハッキリと問い掛けられて、紅音は先ほどまでの剣幕を引っ込める形で口籠った。一般的な日本人の感性で言えば、グイグイと前に出て豪語する事は美徳ではなく、控えめで謙虚な姿勢が良しとされる風潮があるので、これは仕方がないだろう。  しかし、海外生活の長い亜沙美とすれば、この対応には苛立ちを覚えるものだった。日本人の謙遜した態度は、外国では消極的で曖昧な姿勢と取られるものなのだ。 「あっはは! 私たちの間では、誰がリーダーだとかキャプテンだなんて決まってないんだよね」 「そうよねぇ……。誰に任命されたって訳でも無いんだし」  そんな亜沙美の雰囲気を感じ取ったと言う訳では無いだろうが、貴峰と沙苗がフォローに入った。彼女達の台詞は、日本人の一般的な見解と言って良いだろう。  改まって誰かに任命でもされない限り、自ら中心人物であると明言する人物など、日本には極端に少ないのが事実なのだ。 「そうだねぇ……。いうなれば、一年生では紅音がエース、千迅がセカンドってところかな?」  それを総括して説明するように、このみは亜沙美に告げた。彼女の言葉は、今のこの状況を最も上手く纏める一言だと言って良かったのだが。 「……へぇ。翔紅学園新人戦参加チームの……エースとセカンド……ねぇ」  それを聞いて、亜沙美の眼に怪しい光が宿り始めていたのだった。
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