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戦いの火蓋
このみも、何も火に油を注ぎたい訳ではない。どちらかと言えば、この場を穏便に済ませようと試みた説明だった。
これが日本人相手なら、このみの台詞が「この話はもうこれで切り上げ」と言った示唆に富んだものだと理解しただろうか。
しかし残念ながら、相手は日系とは言え生活の殆どを海外で過ごした少女だ。
―――しかも、血気盛んな……と言う枕詞まで付く……だ。
このみの言葉を聞いて、今度は亜沙美の方から気勢が発せられる。しかもそれは、その場の全員が感じられるほどに強いものであり、好奇心に富んだものだった。
思わず息を呑んだ一同は、驚愕の表情を浮かべて亜沙美の方を見やる。表面的には兎も角、内心は強気で勝気な紅音も、思わず声を詰まらせるほどに。
もっともただ1人だけは、亜沙美と同じような興奮を隠しきれない視線を向けていたのだが。
「紅音……と千迅だっけ? 私と勝負しない?」
その原因とも言える亜沙美から、とんでもない提案が齎され、更に一同は声を呑む事となった。唖然としていると言い換えても良いだろうか。
「……どう言う事かしら?」
しかしその中でも、紅音はすぐさま復帰して反問した。因みに、亜沙美の台詞を聞いて千迅の顔には、期待感で凶悪さを増した笑みが浮かび上がっている。
紅音がすぐさま対応出来たのは、呼び捨てにされた事による不快からだった。千迅は自身の事を呼び捨てにして良いと明言していたのだから気にしないだろうが、紅音にしてみれば殆ど初対面の人物より呼び捨てにされるのは不愉快に他ならない。
そしてそれは、多くの日本人がそうなのだろうが、残念ながら帰国子女の亜沙美には馴染みのない風習だったのだ。
「そのままの意味だけど? 日本でも、ワインディングロードレースくらいするでしょ?」
紅音に問い返されても、亜沙美は何でも無い事の様に返答した。これには、さしもの紅音もすぐに返答する事が出来ずにいたのだった。
一目見れば目を奪われるような、まるで理想の美しさを兼ね備えたと言っても過言ではない美少女である亜沙美の口から、まさか道交法違反を行おうとする提案が齎されるなど、この場の誰も想像さえ出来なかったのだ。しかも亜沙美本人からは、背徳感や罪悪感と言った悪事を行おうとしている自覚が感じられない。
「するでしょって……」
「うぅん……」
そんな亜沙美の提案に対して、紅音達は面と向かって否定的な意見を口に出来ないでいた。貴峰と沙苗も、互いに顔を見合わせて苦笑するしかなかった。だが、それもそうだろう。
つい先ほどまで、千迅と紅音は峠道でバトルを繰り広げていたのだ。その行為自体、完全に法に反していると言わざるを得ない。
そんな彼女達が、堂々と亜沙美を注意など出来よう筈も無いのだ。
しかしだからと言って、会ったばかりで殆ど見ず知らずの相手と、公道でレースをすると言う提案に賛同出来る訳もない。……筈だったのだが。
「……ふぅ。もう、良い……」「良いよ、やろうっ!」
煮え切らない態度を見せる紅音達に、一気に気分が白けだした亜沙美が嘆息し話を取り消そうとしたのとほぼ同時に、千迅がもう待てないと言った態で同意を示したのだった。
ここまで千迅が黙っていたのは、亜沙美の提案を紅音達は受けると踏んでいたからなのだが、気付けばその話自体が帳消しになろうとしていたのに気付いて慌てて声を上げたのだった。
「ちょっと、千迅っ!? あなた、正気なのっ!?」
その発言に、即座に反応したのは紅音だった。驚きの表情を浮かべる紅音だが、それは彼女だけではない。その場にいる千迅と亜沙美以外、全員が同じ顔をして千迅を見つめていた。
彼女達は、サーキットでは公道を走るものよりも遥かに高性能なマシンを駆使し、圧倒的な速度で駆け抜けている。転倒ギリギリを攻め、接触すれすれで激しいバトルを演じているのだ。
それに比べれば公道を走るマシンなどは低スペックである事は間違いなく、速度も遥かに遅いと言って良い。
それも当然の話だ。
レースで使用されるコースは、レース用のマシンをより速く走らせる為にメンテナンスが欠かさず行われている。単純に摩擦係数は非常に高く、タイヤのグリップ力は段違いなのだ。無論、タイヤもレース用に特化した食いつきの優れたものが用いられる。
明確にルールが定められ、その場の全員が同じ方向へとバイクを走らせる以上、サーキットよりも安全な場所は無いと断言出来るかも知れない。
そう言った条件下では、競争相手が誰であろうとも安全に配慮する必要は無い。……勿論、意図的に事故を起こそうなどと言う厄介な危険人物が紛れ込んでいれば話は別なのだが。
「ちょっと、千迅! 流石にそれは危険だわ!」
「そ……そうよ! 相手がどんな走りをするのか分からないのよ!?」
紅音に続いて、貴峰と沙苗が声を揃えて警告した。これは、聞きようによっては亜沙美に対して非常に失礼な物言いなのだが、それも当然の事なのだ。実際、亜沙美は何も言わずに動静を伺っている。
先ほどは紅音と千迅で行っていた公道レースだが、そこには危険ながらも安全を確保する為のルールがいくつもある。その中に、見ず知らずの者とは極力レースを行わないと言うものがあった。
サーキットと言うある種安全に配慮されている場所ならばともかく、公道と言う不安全な道路で競い合う場合、相手の力量を把握している事が必須条件となる。つまり、相手がどの様な思考で走り、どんなライディングスタイルで、どれだけのスピードを出せるのかを互いに知っている必要があるのだ。
どのような形でも「競争する」という事を考えれば、これは少しおかしな概念かも知れない。相手の実力を隈なく知っているのならば、わざわざレースをする必要など無いとも考えられるからだ。
だから〝公道レース〟の大半は、実際は練習走行の度合いが強いと言えた。
そして、それはよくよく考えれば当然だとも言える話だった。
一歩間違えれば大きな事故に直結し、サーキットの様に様々なアクシデントに対して備えている訳ではない事を考えれば、相手の力量を把握し、信頼し、挙動を予測して並走するのは当たり前の事なのだ。
「多分、大丈夫だよ!」
それを考えれば、如何に海外では有名であっても、この場では見ず知らずと言って良い亜沙美を相手に公道レースを行うなど危険極まりない話であった。
それでも千迅は、そんな事を全く危惧した様子もなく、カラッとした笑顔で貴峰たちに答えた。これには、紅音達も閉口するしかない。
「……千迅。あなたが相手をしてくれると言うの?」
千迅達の会話を聞いて、亜沙美が千迅へと問い掛けた。これは質問と言うよりも、確認に近い。
「うんっ! よろしくね、亜沙美ちゃんっ!」
心配そうな紅音達をよそに、千迅は亜沙美へと握手を求め、亜沙美は無言でその手を取った。この瞬間に、レースを行う事は決定したのだった。
「あの……それでね。誰か、先行して様子を見て欲しいんだけど……」
そして、挨拶を終えた千迅がおずおずと紅音達の方へと振り返った。
公道レースとは言え、2人だけで行える様なものでは無い。先ほどの千迅と紅音の場合もそうだったが、先行して道路の状態を確認しつつ対向車に注意を払う者と、後方より追走して万が一に備える者が必要だ。そしてその面子は、紅音達の中からお願いするしか今のところはいない。
「……仕方が無いわね。このみ、またお願い出来るかしら?」
千迅の嘆願に、紅音が大仰に溜息を吐いて見せて応じ、このみへと問い掛けた。
紅音も内心では千迅と亜沙美のレースには反対なのだが、それとは別に亜沙美の走りを見てみたいと言う興味が首を擡げていたのも間違いない。いくら公道とは言え、ヨーロッパで名を馳せたライダーの走りを見られるのだから、1人のライダーとしてこれは当然だろうか。
「……了解。じゃあ、先に向かってるよ」
そしてそれは、この場の誰もが同じ思いだったのかも知れない。……鈴を除いてだが。
無論、千迅を心配する気持ちに偽りは無いのだが、レースが決まってしまってはどうしようもない。それならば気持ちを切り替えて、亜沙美の走りを鑑賞したいと考えるのはライダーの性と言って良いだろう。
「それじゃあ、私たちは追走しますか」
今度は1人で先行したこのみの代わりに、貴峰が鈴を後部座席へと誘い走り出す準備を開始した。
そして千迅と亜沙美も、闘志の燃える瞳を交錯させた後に、各々のマシンへと向かったのだった。
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