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秋麗のデッドヒート
千迅を躱しこのバトルに幕を下ろそうと考えていた亜沙美だったが、新たなる挑戦者の気配を感じ取りその考えを改めていた。
(No.1の登場と言う訳ね。……それじゃあ、お手並み拝見ね)
何の前触れもなく突如とした紅音の参戦だったが、亜沙美は至極冷静だった。そのライディングスタイルにブレは無く、リズムには寸分の狂いも無い。
(……先に行かせようって言うの!?)
そんな亜沙美が殊更に隙を晒して走っている様子を見て、紅音は亜沙美の意図を違わず汲み取り思案していた。
まだ全力疾走していない亜沙美の実力は未知数だが、千迅へと向けた圧力からしてかなり速い事は伺いしれていた。このまま紅音が前へ出ても、千迅と同じように突かれ続けるようであればこのレースは負けだ。
そして、紅音は先ほどから後方で亜沙美の走りを見ていただけに、彼女のコース取りやタイミングはある程度分かっているが、亜沙美の方は紅音の走りをまだ見ていない。亜沙美が紅音を前へ出そうとしているのは、紅音の走りを観察したいと言う考えなのは透けて見えていた。
峠の走りでの勝敗は、少し特殊と言って良いだろう。とにかく道が狭くて滑りやすい、そして公道であり対向車の懸念が払拭出来ない事を考えれば、通常のレースとは異なるのも頷けるだろう。
単純に、先頭に立ち続けて後続のマシンを抑え込み、ゴールに定めた場所へ先に到達すれば勝ち。これは間違いない。ただ前述のとおり、必ずしも前へ出る事が適わない場合もある。
もう1つの勝敗を決める方法は、当事者同士の心理に依る。
本当だったならば追い抜けていた、引き離そうにもそうする事が出来なかったなど。当事者たちが勝つ為に取った策を実行出来なかったどころか、逆に覆された場合などは、例えゴール地点を先頭で駆け抜けたとしても負けたと思うだろう。
先の峠レースでは千迅が紅音を強引に抜き去ったが、実はあれは稀であり、その後には危険だと責められてもいる。
(……なるほどね! これじゃあ、千迅には荷が重い筈だわ!)
亜沙美に促されるままに前へと出た紅音だったが、後方より容赦なくぶつけられるプレッシャーに、さしもの彼女も辟易としていた。
インからアウトから、遠慮なく抜きに掛かって来る……少なくともその様な素振りを見せる銀色のマシンを、紅音は振り切る事も抑え切る事も出来ずにいたのだった。
通常のサーキットならば、複数のコーナーと、同じく複数の直線から形作られている。少なくとも、直線では一気に躱される事はあっても、突かれ続けるという事はない。場合によっては、一旦息を吐いて仕切り直しと捉える事も出来るのだ。
だが峠道では、その直線が極端に少ない。場所によっては、皆無と言っても良いだろう。そんな場所では、明らかに後続車が先行車よりも速い場合は、延々と圧力を掛け続けられる羽目になる。
(……へぇ、確かに上手いわね。簡単に抜けそうも無いわ)
しかし実際は、双方の想いには若干の齟齬があった。
しきりに攻め続けていた亜沙美だが、紅音の巧みなブロックに完全な抜くタイミングを計れないでいたのだった。
亜沙美の再三のアタックは、いわば示威行動だ。攻勢続ける事で、相手の隙を伺いミスを誘発させようとしている行為に過ぎない。
それでも、亜沙美ほどの実力者がプッシュを繰り返しても、紅音はそれに屈する事なく持ち堪えている。これは、ほんの僅かと言え亜沙美には誤算だった。
(……それに、もしも抜いても、大きく引き離すのは難しいかも。……何より)
そんな考えを思い起こしたと同時、亜沙美はぞくりと身震いをした。
先ほどから、後方よりどんどんと気勢が膨らんでいくのを彼女が感じ取ったからだ。その発生源は、言うまでもなく千迅だった。
ただ、普通に挑戦的な気配であったならば、亜沙美はこのような気分にはならなかっただろう。
レベルの高いヨーロッパで揉まれて来た亜沙美は、千迅や紅音よりも速いライダーと幾度となくバトルを繰り広げてきた実績がある。今更千迅達程度のプレッシャーを受けたからと言って、それに気を取られるような事など無いと亜沙美自身は確信していたのだが。
(でも……何なの!? この変わったプレッシャーは!?)
亜沙美が今千迅より受けている圧力は、これまでに感じたそのどれとも違っており、得体の知れない感触に困惑していたのだった。
攻撃的であり挑戦的ではあるのだが、そこに内包されている成分は亜沙美の知るそのどれも違っていた。歓楽、期待……そして、ほんの少しの畏怖。そこには、アグレッシブやネガティブな感情など見受けられなかったのだった。
(……そう。そういう事ね!)
「あっははははっ!」
亜沙美が千迅から受ける気の正体に気付いたと同時に、千迅は我慢しきれないと言った感情の籠る笑い声を発していた。この行為には、インカムを耳にしていた亜沙美以外の全員に心当たりがあった。
(……もう。千迅、また悪い癖が出て来たのね)
先頭を走る紅音は、千迅が何を思って笑い声を上げたのか正確に理解していた。このまま走り続ければ、彼女がどういう行動に出るのかまで予測がついていた……のだが。
(だからと言って、そう簡単に前を譲るつもりなんて……ない!)
千迅が望む通りにしてやるという事は、再度紅音が亜沙美と千迅に前を譲ってやるという事になる。それはつまり、亜沙美に負けたと言っている事に等しい。彼女を抑え込み引き離す事を諦めたと公言したみたいなものなのだ。
(……あら?)
千迅の奇声とほぼ同時、前方で紅音が速度を上げたのが亜沙美には分かった。これまでよりもより積極的に、攻撃的にコーナーを攻めだしたのだ。
(ふふふ……。FIRSTとSECOND……ね)
それを見て取った亜沙美は、ニヤリと笑みを浮かべつつ理解していた。千迅と紅音、ファーストライダーとセカンドセカンドライダー、No.1とNo.2……その関係性を。
そしてそれを知った上で、亜沙美もまたこれまでにない気合を込めたのだ。
(……来たっ!)
それは今までとは全く違う、言うなれば超攻撃的で積極的な気勢だった。紅音は、閃光と見紛う白く輝くそれを背中越しに感じた。
しかも、感じただけではない。実際に、亜沙美が先ほどとは比べ物にならない程の攻勢を仕掛けて来たのだ。
(……くっ!)
亜沙美から苛烈と言って良い攻撃を受けて、紅音は既に追い詰められていた。間違いなく亜沙美がシフトチェンジした事は既に認識している紅音だが。
(……これほどとはね!)
先ほどから紅音は、亜沙美から後方より突き上げられるように、マシンを右に左にとバンクさせてコーナーを攻略させられていたのだ。これは紅音にとって、完全なオーバーペースだと言って良く、彼女自身危機感を覚えていたのだった。
牙を剥いた亜沙美のアタックはそれまでの様子見時とは明らかに異なり、彼女の容姿からは想像もつかない様な荒々しく強引なものだった。だがそれも、高いレベルでの話。
(激しいっ! でも、的確に要所を付いて来るっ!)
紅音からすれば強引とも言えるイン側やアウト側への仕掛けも、千迅の様に雑なものでは無く、ともすれば優雅であり無理がない。そんな攻撃に紅音は1Kmの間、実に16のコーナー全てで受けていたのだ。
(……っ!? しまったっ!)
17つめのコーナー、右回り約90°のカーブで、紅音は速度を誤りオーバースピード気味で進入してしまった。
それは、ミスと言うには細やかであり、それを指摘するのは少々酷と言って良いほどの事だった。それまで受け続けてきたプレッシャー、そして初見の峠道だという事を考えれば、それは失敗の内にも入らないだろう。
(……もらったわ)
だが、それを見逃す亜沙美ではなかった。僅かに外側へと流れた紅音のマシンの内側へと、亜沙美は見事なコントロールで自分のバイクを潜り込ませた。
(やられたっ!)
そしてそれは、紅音にとって致命的となり……今回の紅音のレース終了を告げていたのだった。
※作品は全てフィクションです。実際の公道では交通ルールを守り、事故には十分注意して運転して下さい。
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