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狂気のライダー
紅音のミスから生じた隙とは言え、その僅かな間隙を突かれ、彼女は亜沙美の先行をまんまと許してしまう。
(やられたっ!)
車体の半分以上をインに食い込まされては、紅音としても引かざるを得ない。どのみち、その先に待つ右コーナーでは亜沙美がイン側となるのだ。亜沙美に頭を取られる事は、この時点で確定したのだが。
(……千迅っ!?)
流石の紅音も、その後に続いた千迅の存在までには気が回っておらず、蒼い車体を視界の端に捉えた瞬間、思わず驚きを隠す事が出来なかったのだった。
徐々に銀色のボディが紅の車体を躱してゆくその真後ろ、亜沙美のマシンの後輪すれすれを千迅のバイクの前輪が続いている。ピッタリと張り付き紅音に入り込む余地さえ与えないそのテールツゥノーズは、この峠を走るには不適切であり空恐ろしいほどである。
しかし、紅音は……見た。
(この娘……これで楽しんでるの!?)
メットの下に、千迅の浮かぶ歓喜の表情を……だ。
ほんの僅か、亜沙美が減速するか千迅の速度が速過ぎるだけで、互いの前輪と後輪は接触し事故を引き起こすだろう。その際には前輪を大きく揺さ振らされる結果となる千迅は、大惨事となる可能性が高い。
(恐怖を……感じていないと言うの!?)
そんな、全てにおいてギリギリの状況下にも拘らず千迅は笑って……いや、嬉々としているのだ。これには流石の紅音も、驚愕に息を詰まらされたのだった。
紅音がそんな感覚に捉われてしまった僅かな時間で、亜沙美と千迅のマシンが彼女を抜き去り前へと出た。そしてそのまま、バトルへと突入する構えを見せている。
(置いて行かれるもんですか!)
亜沙美とのレースは終了したと自身で納得しても、このまま惚けた状態で残されるのには得心がいかない。再び気合を入れ直した紅音は、前を行く2台の追走を開始したのだった。
残りおよそ3Kmとなり、亜沙美は更に集中力を高めていた。無論それは、後方にいる千迅を振り切る為だ。
(この娘……さっきとはまるで違う)
前に出た事で自由にペースを上げられる状況となったにも関わらず、亜沙美は後方に張り付いて離れない千迅に少なくない驚きを感じていた。
(ちょっと、千迅! 大丈夫なの!?)
そしてそれとは違う脅威を、後方から見つめる紅音は感じていたのだった。
亜沙美の速度は、先ほどよりも上がっている。気を抜けば瞬く間に、紅音のマシンと大きく水を開けてしまう程に。
だがそれは、千迅も同様であった。
そして紅音の思った先ほどの危惧は、そのまま千迅のランディングを見てのものだった。
目前を走行する千迅の動きは、その挙動からしておかしかったのだ。それは、空恐ろしいほどに。
(く……は……)
紅音のその考えは、正しく的を射ていた。実際千迅は、明らかなオーバーペースの走行に転倒しないだけで精一杯だったのだ。……それでも。
「あ……あは……あっははっ!」
千迅がアクセルを緩め、ペースを落とす事は無かったのだった。
この場面で誰よりも恐怖を感じていたのは、誰でもない千迅本人だっただろう。それも当然と言って良かった。
明らかに、自分の知らない領域でのスピード、ハンドル操作、マシンコントロール、リズム……。どれも、今の千迅には持て余す程の高いレベル……テクニックだ。
それに狭い峠道、滑る路面。道路の両側は山肌か崖……。如何にライダースーツの性能が上がり耐衝撃性や耐擦過性に優れているとはいえ、僅かなミスからの転倒で大事故につながりかねないのは明白なのだ。
しかも設備が万全なサーキットとは違い、それは死に繋がる危険を孕んでいる。かつて、ここまでの恐怖を感じた事は、千迅には無かったのだった。
実際この時も、彼女の四肢は震え、手足に上手く力が入らない状態だった。それでも走る事が出来ているのは、殆どノリと勢いだと言って良いだろう。
しかしそれと同時に、千迅は不思議な感覚に捉われていた。
これまでに感じた事のない極限とも言える恐怖に襲われてそれでも尚、前を行く亜沙美に付いて行けるだけのスピードを実現している自分を強く感じていたのだ。
(はぁ……はぁ……)
(まだ……ついて来る……)
両者の精神状態や体力、集中力には、既に明確な違いが生じている。それも当然だろうか。
亜沙美は全力を発揮しているだけなのだが、千迅は既に全力どころか限界を超えている。これは肉体的な話ではなく、精神的な話……つまり集中力だ。
仮に前を行く自分よりも速い相手と全く同じ走りをしたとして、後続車は同様のスピードを出せるかと言えば……その限りではない。いや……無理だと言えるだろう。
何故ならば、そんな事は現実的に不可能だからだ。
同メーカーの同型バイクであっても、全く同じように動作する訳ではない。セッティングが変われば別物のマシンとなってしまうし、更に細かく言えばエンジン内の部品のばらつきやギアレシオで挙動はガラリと変わってしまう。
例え全く同じ造りのバイクがあったとしても、それを操縦するライダーによってもスピードが変わる。各人にそれぞれ違ったリズムやタイミングがある以上、完全に同調した走りなど出来ないのだ。
尚、第一宗麟高校所属の1年生、木下万理華、瀬理華の双子の姉妹はこの条件には当たらない。
双子ならではの息が合った動きが可能な上に、タッグレースで勝利する為に、あえて同じように走らせる訓練を行っているからだ。またもしも双子で無かったとしても、訓練次第では同調した走りも不可能では無いだろう。
因みに仮定としてこの双子ライダーがそれぞれの走りをしたならば、やはり同じタイムとはならないだろう。
安定していると言って良いマシンコントロールで、右に左にバイクをバンクさせてコーナーを次々と攻略していく亜沙美。荒れた路面を前にしても慌てる事無く、滑るタイヤを見事に制御している。
(千迅っ!?)
それに対して後続の千迅は、紅音から見ても実に危なっかしいと言えるライディングで何とか亜沙美に付いて行っていた。
紅音とは距離が開きつつあるが、その不安定さは離れていても良く分かるほどである。そしてそんな彼女の眼前で、千迅は何度目かも知れぬ後輪のスリップを見せていたのであった。
(……何故? 何故あんな状態なのに付いて行けるの?)
そして紅音の脳裏には、そんな疑問が浮かび上がり解消されずにいたのだった。
明らかに、千迅は亜沙美よりも無駄の多いライディングをしている。普通に考えるならば、これはデメリットでありプラスの要素などどこにも無い。
マシンをブレさせ、後輪を滑らせ空回りを起こして、それでも千迅と亜沙美の距離は離れる事が無い。その事実が、紅音にはどうにも不可解だったのだ。
ただ紅音のメットに備え付けられているヘッドセットから、千迅の笑い声だけが時折聞こえるだけだった。
(何……この娘……?)
そしてそれは、前を行く亜沙美も同じ気持ちだった。いや、亜沙美の方は紅音よりももっと困惑の度合いは大きかったかも知れない。ただ、持ち前の自制心の強さから、大きく動揺する事が無かったと言うだけなのだ。
前を走っていても、千迅の不安定としか言えないマシンの挙動は具に感じ取る事が出来る。その彼女から見ても、千迅の走りは常軌を逸していると言って差し支えないものだった。
(……狂気)
亜沙美のヘッドセットからも、千迅の笑い声が聞こえてくる。その嬉々とした、あるいは恐怖を孕んだ声から、亜沙美はそう感じ取っていた。そしてまた、危機感をも抱いていたのだった。
亜沙美は、冷静さを欠き、自分の力量以上のスピードを望んだ者が行きつく末路を知っている。それは、過去に幾度も体験して来た経験から来るものだ。
そこから導き出される結論は、千迅は自滅へと向かい突き進んでいる狂気のライダーであるという事だった。
※作品は全てフィクションです。実際の公道では交通ルールを守り、事故には十分注意して運転して下さい。
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