彩乍ら散る

1/1
前へ
/63ページ
次へ

彩乍ら散る

 レースもいよいよ残り1Kmとなり佳境を迎えていた。  先頭を走るのは、当然とでも言おうか木村=ヴァルヌス=亜沙美。紅音を躱して先頭に出て以降、盤石の状態で走り続けている。千迅と紅音とのテクニック差を考えればこれは当然で、最後方を行く紅音との距離もジリジリと引き離しつつある。  異常なのは、亜沙美のすぐ後ろを走る千迅の方であった。 (危ないっ!)  思わず声を上げそうになるのをグッと堪えて、紅音は心の中で悲鳴を上げていた。自身もかなり無理をして速度を出している状態を考えれば、前方の状態を逐一気に掛けている余裕などない。それでも紅音が、目を離さずにはいられなかったその理由。  もう何度目か知れない、千迅がコーナーで後輪を滑らせてしまう挙動を見せたからだ。  紅音が声を出す事を堪えたのは、それが他のメンバー……亜沙美は勿論だが、何よりも貴峰や沙苗、このみや裕子、鈴に余計な心配を与えたくなかった咄嗟の判断だった。  転倒したのならば、大惨事だ。状況によっては即座に救急へと連絡しなければならないし、場合によっては消防やレッカーなどの手配も必要だろう。だが未だ事故を起こさずに走り続けているのだから、紅音の声でいらぬ不安を煽りたくないと言う配慮なのだ。 (……この娘は!)  そして前を行く亜沙美は、紅音とは違う感覚から恐怖を覚えていたのだった。  後方を改めて確認しなくとも、亜沙美はその気配から千迅のライディングを察していた。無論、その狂気とも思える走りも。  亜沙美から見ても、千迅の走り方には無駄が多い。いや、無駄と言うよりも無謀か。  自身の制御下にない速度で突っ込み、そのツケを急制動で払いつつ、更に速度を落とさない為にアクセルを緩めず、その結果として後輪がブレて滑り空転を繰り返している。このままでは、転倒もそう遠くないのは火を見るより明らかだ。 (分かっていて……!? 頭がおかしいの!?)  そんな事は、当然千迅も理解しているだろう。操縦している本人なのだから、自身の現状がどういうもので、自分が何をしているかなど把握していて然りなのだ。  それでも千迅の操縦を知るにつれ、あえてそのように無理な運転を行っているとしか亜沙美には思えなかった。そしてそう結論付けた時、亜沙美には千迅が気でも触れたのかと思わずにはいられなかったのだった。  技術が飛躍的に発達し、マシンもライダーの装着物においても優れた対策が施されている現在、事故による重篤な怪我の発生率は勿論、死亡率なども劇的に低下している。だがしかし、低くなっているだけで皆無となった訳ではないのだ。  事故の種類によって重傷化は避けられず、場合によっては死んでしまう事も少なくない。交通事故は、車両を扱う社会においては最も重視し、且つ身近にある大問題なのだ。  当然、千迅の走り方には事故の誘発を孕んでいる。その結果、取り返しのつかない事態になる事も想像できて然りだ。 『はっ……はっ……はっ……あははっ』  それでもヘルメット内のインカムからは、千迅の息遣いと笑い声だけが時折聞こえてくる。それだけを聞けば、千迅がと考えられるし、事実貴峰たちはそう考えていた。  しかし、それが事実でない事は当事者たちのみが知っていたのだった。  亜沙美と紅音の見解と、千迅の心情には大きな隔たりがあった。彼女は、にあったのだった。 (もっと……もっとっ!)  テクニックと言うものは、一朝一夕で身に付くものでは無い。辛うじて亜沙美に追従出来てはいるものの、それは彼女のものとは似て非なるほどに拙い技術に依るものだった。  それでも千迅は、亜沙美に離される事なく付いて行く事が出来ている。彼女はそれが、嬉しくて仕方がないと言った気持ちで一杯だったのだ。  俗に、人間の能力は実は30%程度しか使用されてないと言われている。理由は様々だが、主流としては仮に100%使い切ってしまえば、肉体や精神が持たないから無意識にストッパーが掛かっていると言うものだろうか。  しかしこれは、強ち想像だけで語られていると言うものでは無い。人は時に、信じられない力を発揮する事があるのだ。そしてその結果として、大きな代償を支払う事も知られている。  特に有名なものとしては、火事場の馬鹿力だろうか。人が危機に瀕し命を脅かされる、またはそれと同等な状況に置かれた際、信じられないような力を発揮してその場を凌ぐと言うものだ。  その常軌を逸した力の中には、筋力を大きく超えた力や、認知能力を遥かに超えた理解力、致命傷さえ気に掛けない生命力などが挙げられる。  これらは、行使した後には絶命するか、重体となり倒れてしまうケースが多い。そして、そんな力を常時使う事がない様、脳が無意識のうちに制御していると言うものなのだ。  だが、単純に30%と言っても、それは正確な数字ではない。実際は個人差があり、27%なのか32%なのかは不明でそれこそ計測のしようがない。 (速く……もっと速くっ!)  千迅の目には今、前を走る亜沙美が映っている。だが厳密に言えば、その亜沙美を見つめている訳ではない。  亜沙美のマシンを追いかける様にして、そののだ。  千迅は、これまでの様々なレースでも自分の持てる最大の能力でマシンを走らせてきた。その結果、レースでも転倒する事が多く完走率が著しく低かったのが事実だ。  だが、それがと千迅は肌で感じていた。  自分がギリギリだと、限界だと、もうこれ以上は無理だとマシンコントロールも、実はまだまだ安全マージンを取って来た内側にあったと、彼女はで知ったのだった。  そして、それをレースをしながら。無論亜沙美にはその様な考えなど微塵も無いのだが、千迅の方にしてみればその考えが一番シックリと来ていたのだ。 『あっははっ!』  どの様なコース取りで、どんなライディングであり、それが峠道と言うコースであっても、これまで経験した事のない速度でコーナーを攻略できるというが、今は千迅の思考全てを占めていた。それが、知らず彼女の口を吐いて零れ落ちていたのだった。  スピードが自分の手を離れ、どんどんと上がって行く。その際限のない高揚感に千迅は我を忘れていたのだが。 (……この娘)(これ以上は……まずいっ!)  そんな千迅の気分に水を差す様な考えを、亜沙美と紅音は殆ど同時に思い描いていた。だが、それも不思議な話ではない。  際限なく取り入れ速くなる……と言えば聞こえは良いが、実際はその様に都合の良い話など存在しない。内包していた能力が開花し、本人も信じられない様な力を発揮するなどという事は、それこそ架空の物語内でしか存在しないのだ。  実際は、自分の可能性に気付く事が出来ても、それを思う様に使う為には更に努力が必要となる。人間の身体は、これまでの能力よりも上回る力を発揮する為に、それに慣れる為の準備が不可欠なのだ。  今の千迅は、己の能力の上限など顧みず、目の前に示された可能性に飛びついているだけだ。これでは、いつ転倒してもおかしい話ではない。  しかしだからと言って、亜沙美が千迅を引き離せば良いと言う話ではなく、逆にわざと前へと行かせれば済む訳でもない。亜沙美がスピードを上げれば千迅は付いて行こうとするだろうし、前へと行かせればその途端に集中力が切れて危険に陥る可能性もあるのだ。  この時、亜沙美は焦りに捉われていた。それは如何に千迅に怪我を負わせる事なく、かという考えに、最適な思案が浮かばなかったからだった。淡々とコーナーを攻略する傍らで、頭の中では「どうすれば……」と言う答えの出ない自問を繰り返していた……のだが。  それも、杞憂に終わる。 『千迅っ!』  随分と離されつつあった紅音だが、その瞬間は確りと目撃する事が出来た。突如、千迅のマシンが不可思議な動きをしたのだ。  コーナーより立ち上がろうとした千迅のマシンは後輪を滑らせ、それを意に介さずバイクを起こそうとした千迅だったのだが、後輪はグリップを失ったかのように逆方向へと滑りを見せ、彼女が制御を行おうとする間もなくうねる様な仕草を見せて……転倒したのだった。マシンは横転し二度、三度と回転するも、ライダーである千迅の様子は紅音の位置からでは伺えない。 『千迅が転倒したわっ!』  即座にインカムへと呼びかけた紅音が、そのまま現場へと到着する。引き離されていたとはいえ、バイクの速度を考えればそれほど時間の掛る距離ではなかったのが幸いしたのだった。 ※作品は全てフィクションです。実際の公道では交通ルールを守り、事故には十分注意して運転して下さい。
/63ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加