再戦への布告

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再戦への布告

 慌てて紅音は、千迅の転倒した現場へと到着した。紅音は気付いていないが、彼女の叫びを聞いて亜沙美もマシンを止めて後方へと振り返っている。 「いたたたた……」  そして紅音が見たものは、立ち上がり片手で頭を擦っている千迅の姿だった。 「千迅っ! あなた、大丈夫なのっ!?」  紅音はメットを外して、千迅へと駆け寄り声を掛けた。外観上は、特に大きな怪我は見受けられない。何よりも本人に意識があり、立ち上がって歩き声を発しているのだ。それだけを見れば、大事は無いと考えられるのだが。 「ん……? ああ、紅音ちゃん。あっははは……転んじゃった」  当の千迅はと言えば、姿全く怪我はないようだった。それどころか、自分が転倒した事に恐縮している素振りさえ伺える。  それを見た紅音は小さく安堵の溜息を吐いたのだが、その次の瞬間にはふつふつと怒りが沸き上がっており。 「転んじゃったじゃないわよっ! 何考えてるのよ、あなたっ!」  それはそのまま、彼女の口を吐いていたのだった。そこには、圧倒的な怒りと、ほんの僅かな不安、そして安意が込められている。  だがそれも当然だろう。友人知人が目の前で事故にあって、心配しない者など殆ど居ないのではないだろうか。しかもそれが、長く付き合いのある同僚……親友と言っても良い間柄であるのならば猶更だ。……紅音自身は、強く否定するだろうが。 「ご……ごめんねぇ。ほんと、ごめん……」  思いも掛けない程の余りな剣幕に、千迅はそれまでのどこか軽い雰囲気を引っ込め、小さくなって謝罪を繰り返した。それを見た紅音は、ハッと何かに気付きクルリと千迅に背を向けてしまったのだった。 「ちょっと、千迅! 大丈夫なの!?」  そこへ、後方より遅れて貴峰と沙苗、裕子がやってきた。先ほどの通信を聞いていたのだから、当然すぐに千迅の身を案じる台詞を口にした貴峰だったが。 「……無事みたいね」「……良かった」  沙苗は千迅と紅音の状況を見て、そして裕子は千迅の姿を見て安心した言葉をそれぞれ呟いたのだった。 「もう……。あんた、一体何やってんのよ」 「全くよ。これはレースと言っても、公道レースなのよ? 何を熱くなってるんだか」 「で……でも、本当に無事で……良かったです」 「……千迅はね」  そして千迅の無事を確認した貴峰たちは2人の元へと集まり、そのまま談笑を始めたのだった。貴峰が呆れ、沙苗が注意し、裕子はただ只管に安堵する。だが、紅音だけは千迅とは違う方向を見てポツリと呟いた。  その視線の先には、見るも無残な千迅のバイクが横たわっていたのだった。 「あぁあ……。これ、走れるのかな?」  トボトボと自分の愛機の元へと向かい、倒れているマシンを起こしだした千迅の背中へ、貴峰が嘆息気味に声を掛ける。  千迅のマシンは、転倒のショックによりカウルが大きく割れ、そこには派手な擦過跡が刻み込まれていた。ハンドルも曲がり、よく見れば前輪もどこか歪んでいる様に見える。低速での事故であったのが幸いし全損と言う程ではないのだが、やはり速度に反して派手な事故を演じており、マシンの受けたダメージは殊の外大きく見える。このままでは当然、走って帰る事は不可能にしか思えない。 「……身体の方は大丈夫な様ね。マシンは……修理が必要かもしれないけれど」  がっくりと項垂れる千迅へ向けて、歩み寄ってきた亜沙美が声を掛けて来た。彼女はレースが終了してもそのまま帰らず、千迅の様子を見る為にわざわざ待っていたのだった。 「あ……あはは……。ごめんねぇ、こんな結果になっちゃって」  そんな亜沙美へ向けて、千迅は力なく謝罪した。実際はその様な必要も無いのだが、今の千迅にはそれが適当かどうかの判断もつかず、気遣ってくれた亜沙美に感謝を述べたのだ。 「私を気にする必要は無いわ。それよりも千迅、あなたは病院に行く必要は無いの? それに、バイクはどうするのかしら?」  そんな千迅に簡潔な返答をすると、亜沙美はそのまま幾つかの質問を投げ掛けたのだった。千迅と紅音達の会話を聞く限りでは問題ないように思われるが、実際に確認しなければその実は分かりようがない。 「あ……うん、大丈夫だよ。それに、バイクも多分応急処置は出来ると思うから……あ、来た」  未だ元気が出ない千迅だが、それでも目一杯の笑顔で答え、そのまま亜沙美の後方へと目をやった。そちらからは、1台のバイクが向かって来るのが見える。 「どうやら、このみが来たようね」 「取り合えず、マシンを道路脇に寄せましょう」 「あ……じゃ、じゃあ私は、後方の車両誘導に行ってくるね」  紅音の言葉で、やって来るマシンのライダーが言い当てられ、沙苗は通行の邪魔にならないように提案し、その意味を察した裕子が紅音達に告げるとそのままバイクに乗って元来た道へと走り出した。彼女は、後方で事故車アリの合図を出し、通行者の接近を知らせる役を買って出たのだった。  それを見て、貴峰は紅音に断りを入れて、このみが向かってくる方へとバイクで走り出す。サーキットと違い一方通行ではない公道では、前方からも車両がやって来る可能性があるのだ。 「千迅は……っと、大丈夫だな。マシンは……あちゃ、ハンドルがちょっと厄介だなぁ」  千迅が応急処置は可能だと亜沙美に答えた理由は、このみの存在だった。第一自動二輪倶楽部にてメカニックを務めているこのみならば、多少の道具で応急処置を施す程度は難なくやってのけるからだ。 「ちょっと、千迅っ! どういう事よっ!」  それよりも千迅を驚かせたのは、このみのタンデムシートに乗っていた鈴の剣幕だった。彼女は、顔を真っ赤にして詰め寄って来たのだ。 「い……いや、ちょ……鈴ちゃん。ちょっと落ち着いてよ」 「落ち着いてじゃないでしょっ! これが落ち着いていられるもんですかっ! あんた、何でいつもそう……」  紅音よりも、誰よりも激しい剣幕で詰め寄って来る鈴を、若干後ろめたい千迅は持て余し気味だった。しかし、それも仕方のない事だった。  鈴は、バイクの世界で如何に転倒が日常茶飯事なのかを知らない。事故を起こしたと知れば、恐らくは鈴の反応が普通では無いだろうか。比較的冷静に対処している紅音達の方が、どちらかと言えば異例なのだろう。  もっともそれも、レースの世界、サーキットと言う場所にあっての話であり、公道での転倒はそのまま事故なのだ。だからやはり、ここは千迅達の感性がずれていると言った方が正解だろう。 「ごめん、鈴ちゃん。ちょ……ちょっと待ってね」  殆ど涙目で文句を言い続ける鈴を何とか引き剥がし、千迅は唖然と立ち尽くしていた亜沙美に正対した。このままでは彼女は帰るはタイミングを逸したまま、いつまでも立ち尽くしたままとなってしまうだろうと言う千迅なりの配慮に依る処であった。 「どうやら本当に身体も、バイクの方も大丈夫なようね」  中断していた会話が再開でき、亜沙美も何処かホッとしたように優しい笑みを浮かべて呟いた。その表情は、同性の千迅でも見惚れてしまいそうになる程に美しい。 「うん、ありがとう」  だが、そんな和やかな雰囲気もそこまでだった。千迅が亜沙美にお礼を言ったその次の瞬間には。 「……そう。なら千迅、そして紅音。今度は、サーキットで戦いましょう」  キッと引き締まった面立ちとなった亜沙美は千迅へ、そしてその後方に控える紅音へ向けて宣言したのだった。彼女の言う今度とは、無論新人戦の事。その際のレースで、今回の続きをしようと言っているのだ。 「うん、分かったっ!」  それを聞いた千迅は、身体の内から沸き上がる感情に身震いし、パァっとその顔を明るくした。  それまで、事故のショックだろうどこか元気が無く沈みこんでいた千迅だったが、亜沙美のこの言葉で元気を取り戻したかのようであった。 「……ええ。望むところよ」  そして紅音の方はと言えば、これまでにない厳しい顔つきとなり亜沙美へ返答する。紅音の中には、今回のレースでの屈辱が少なからずあり、無意識のうちにその手を強く握りこんでいたのだった。 「……楽しみにしているわ」  そんな2人の対照的な反応を知ってか知らず、亜沙美はそれだけを告げると颯爽と去って行ったのだった。
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