暗雲の予感

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暗雲の予感

 10月も第3週を迎え、テスト休みも終わった千迅達に日常が戻ってきた。  先日の有間峠で転倒時に小破した千迅のマシンだが、その場で応急処置を施したこのみのお陰で動かせるまでに回復し、そのまま千迅達も帰路へと付いた。その後、やはりこのみの手により修理がなされて、今では事故を起こす前と何ら変わらない状態に戻っている。  千迅達にとっては学園生活再開となる訳だが、全員が完全な日常へと戻る訳ではない。  すっかり秋の深まった翔紅学園第一サーキットでは、複数のモーターサイクルが甲高いエキゾーストノートを発して周回を重ねていた。その中に、一際精彩を放ち存在感のあるマシンが今まさに最終コーナーを立ち上がろうとしていたのだった。 「千晶。第3、第4区間ではタイムの向上が見られるけど、第1から第2区間では若干のロスが発生しているわ」 『了解よ、美里。もう少し、コーナー区間でのライディングを煮詰めてみるわ』  頬を嬲る空気は冷たくなったと言って良い程に気温は下がっているのだが、それもヘルメット内部には関係のない話である。断熱性能も上がっているヘルメットにライダースーツは、外気の影響を伝え難く内部の熱も発散させ難い。すでにコースを十数周している千晶の顔には、大粒の汗が浮かび上がっていた。  本田千晶にとっては、第3週末に行われる日本GPに向けてのマシン調整に追われる日々が佳境に入っていた。細かいセッティングは現地で行わなければならないのだが、マシンの調子やフィーリングを見るならば翔紅学園のサーキットでも出来る。  精力的にコースを回る千晶にコントロールセンターより美里が随時情報を与え、それを受けて千晶は取るべき対応を返事する。千晶はこれを、テストが終了してより休み返上で行っていたのだった。  本来ならば、テスト期間中、そしてテスト休み中の部活は禁止となる。ただし、試合やレースが控えている生徒に関しては、それも特例が認められていたのだ。 「お疲れ様、千晶。随分と熱心だけど、そこまで神経質になる事なのかしら?」  ピットインを果たしてマシンをメカニックに委ねた千晶へ、美里が笑顔で近付いて来た。  すでにレースまで1週間を切っており、本来ならば誰も彼もがナーバスとなっていて然るべき時期である。特にその辺りに厳しい性格だと言って良い美里がこの雰囲気なのは、事情を知らないものからすれば違和感を抱いてしまうだろうか。 「そうね……。自分でも気にし過ぎだと思うんだけど……」  美里の接近に気付いた千晶は、ヘルメットを解いて押し込められていた長く美しい深蒼色の髪を開放してやった。窮屈にメット内に収まり汗も吸収しているだろうに、何故か千晶の髪は秋風へと優雅にそよぎ、熱気と共に甘い香りを周囲へと発散した。  誰もが幾度も見ているだろう仕草であるにも拘らず、その瞬間には美里を含めて周囲の者の時間を奪ってしまう。そんな魅力を千晶は振りまいていた。 「な……何か気になる事でもあるのかしら?」  随分と付き合いの長い美里でも、そんな千晶の仕草には心奪われてしまう。しかし何とか体勢を立て直した彼女は、その動揺を悟られぬように反問したのだった。  心を乱された美里であったが、その質問は的を射ていたようで。 「ええ……。次のレース、単純に数字や前評判だけで安心する事なんて出来ないわ」  日本GP第9戦の場は栃木県「ツインリンクもてぎ」である。  直線と直線をタイトなコーナーで繋げたサーキットであり、単純に見えて実はテクニカルなコースでもある。  最長730mの直線を有しているが、実は500mクラスの直線がホームストレ―トを含めて3本あり、コース全長でも4,800mある。加速と減速が肝となり、ライダーの高度なテクニックとマシンの緻密なセッティングを要する、国内でも指折りの難コースだ。 「……他のマシンがレベルアップしてくるという事かしら?」  神妙な面持ちで、美里は千晶の返答に再び問い質した。とは言えこれは、どちらかと言えば千晶の言葉の補足であったようで、美里の言葉に千晶は頷いて応えただけだった。  長い直線が多くテクニカル区間が少ないロングコースという事は、そのままパワーが重要視される。そして、ホンダのマシンは特にパワーと最高速度で他社製マシンの群を抜いている事で有名だった。  そう言う意味では、ホンダ社製バイクが有利なサーキットだと言えなくもない。 「……カワサキマシンは間違いなくレベルアップしているわ。それに合わせて、他のマシンもレベルを上げて来るでしょう。それに対して、ホンダからは新しいエンジンやパーツの供給がされると言う話は今のところないわ。それなら、今出来る事に最善を尽くす以外ないでしょう?」  ふわりと髪を靡かせて振り返った千晶が、美里を正面に捉えて話した。すっかり日没が早くなり随分と西に傾いた陽をバックにした千晶に見据えられて、美里は再び赤面し言葉を失ってしまっていた。この時ばかりは美里は、西日が自分の顔に当たっている事を感謝していたのだった。 「……そうね。時間は少ないけれど最善を尽くしましょう」  その様な台詞を口にしなくとも、千晶を始めとして誰一人として手を抜く様な人物はいない。それでも千晶を前にして美里がそう口にしたのは、改めて気を引き締める為であろう。 「ええ……お願いね」  ニッコリと微笑んで答える千晶へ向けて、美里は力強く頷いたのだった。  そして木曜日、いよいよレースウィークに突入する。 「先輩たちの仕上がり、どうなのかな?」  千晶たちはレースに参加する為、第一自動二輪倶楽部とは別メニューでの練習となっている。これまでは第一サーキットを使用していたが、今は第二サーキットでマシンを走らせている筈だった。  ピットインを果たしてそちらの方を向いた千迅が、同じくピットで待機中であった紅音に声を掛けた。 「……さあ? でも、今回のレースはホンダのマシンが有利と言われているからね。明日からに備えて、微調整してるんじゃないかしら?」  紅音とて、現在のレース事情に精通している訳ではない。彼女の言葉は、決して楽観視から来るものでは無かったのだが。 「うっふふぅ……。それはぁ、分からないわよぉ?」  そんな2人の会話に入り込んできたのは、2年生にして次期エース候補の新条帆乃夏だった。淡い緑色にも見えるウェーブ掛ったロングヘアーに、ブラウンの瞳はやや垂れ眼がち。今は彼女も待機中なのか、少し大きめの眼鏡をかけたソバカスが特徴的な顔立ちだけを見れば、この第一自動二輪部でTOPを張る速さの持ち主だとは思えない。……何より。 「えっ? それは、千晶先輩が苦戦するって事ですか?」 「新条先輩、それは他のマシンの性能が劇的に向上すると言う話でしょうか?」  帆乃夏の介入に、千迅と紅音は殆ど同時に質問を返していた。その食いつき気味の反応に、帆乃夏はやや気圧されたのか後退りながら。 「わわ……。そ……それは流石にぃ分からないけどぉ、レースってぇ何が起こるかぁ分からないでしょぉ?」  何とかそれだけを返したのだった。  勝気や強気な者が多いモーターサイクルレースの世界で、帆乃夏の様なある種のんびりとした性格な者も珍しい。闘争心が感じられないと言うのも、帆乃夏の特徴の一つだろうか。それでいてマシンを走らせれば追随を許さないのだから、他者からすればその違和感は相当なものである。  無論、翔紅学園第一自動二輪倶楽部の面々は、すでにその事には慣れてしまっているのだが。    帆乃夏の台詞を聞いてみればその通りで、絶対に安泰なレースなど存在しない事は千迅も紅音も十分に理解していた。  ただ新条帆乃夏と言う人物は、いわゆる天才肌だ。感性で読み取った事象を言葉にするのは得意な方ではない。ましてや、この話し方である。 「それよりもぉこれからもう一度コースに出るんだけどぉ、2人ともぉ私と並走するぅ?」 「はいっ!」「ええ、是非お願いします!」  それでも確かに、ここで分からない事を考えていても時間の無駄である。今は練習時間でもあり、千迅と紅音は帆乃夏の提案を即答で応じたのだった。  そしてその翌日、千迅達は帆乃夏の言葉が現実であった事を知らされる事になったのだった。
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