女王の矜持

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女王の矜持

 聖歴2016年10月第3週金曜日。  この日から「日本GP第9戦ツインリンクもてぎ」のレースウィークは本格的な動きを見せる。初日となる今日は、各ライダーが自由に周回しセッティングを出すフリー走行の日だ。  この日に出るタイムは参考程度でしか無く、どのチームも本気の度合いで言えば随分と低い。また、各ライダーもそのつもりで取り組んでいる……のだが。 「……あなたの予感が、嫌な形で当たっちゃったわね。……いえ、予想かな?」  そんな美里の言葉を肯定するかのように、会場中が異様な雰囲気に包まれていた。  初日という事でスタンドにギャラリーは殆どおらず、目に付く人影はレース関係者かマスメディアぐらいだ。それでも、小さくない騒めきがサーキット全体を覆っているかのようだった。  ホームストレートに設置されている大型のスクリーンには、現在各自のタイムが表示されていた。予選出走台数は50台を下らず全部を映し出す事は不可能なのだが、それでもメインスタンド前を通過した順に20名ほどのタイムを掲示している。 「……本当に。当たって欲しくは無かったんだけどね。もしも対策を執っていないなら、HRTはさぞかし大騒ぎでしょうね」  しかしそんな異様な空気の中で、少なくともこの2人だけは平静を保てていた。それは美里の言葉通り、事前にある程度予測していたからだったろう。  スクリーンに先ほど表示されていたのは、フリー走行とは思えない程に速いタイムだったのだ。当然、それを成していない他チームの慌てぶりは尋常ではない。  まだ始まったばかりのフリー走行タイムなど参考にもならず、無論レースには関係ない。それでも、現在の「ツインリンクもてぎ」のコースレコードから遅れること僅かに1秒弱ともなれば、会場全体が色めき立っても仕方が無いだろう。  勿論、これからどんどんと各チームタイムを縮めて来るのだ。それは、タイムを出した「SRC(スズキレーシングクラブ)」も例外ではない。また未だ目立った動きはないが、前回のレースで活躍を見せた「KMR(カワサキモータースレーシング)」も無視できない存在だった。  その様な状況なのだ。千晶の予測は実に的を射ていたのだった。 「……してやられたわね! ほんっとうに腹立たしいわ!」  今にも足元の看板を蹴飛ばしてしまいそうな剣幕で、HRTのガレージに据え置かれているモニターを見ながら、結城千勢(ゆうきちとせ)は毒づいた。  艶やかな黒髪が真っ直ぐに腰まで延びている。それはまるで、彼女の性格をそのまま表しているかのようである。スッと整った顎のラインや鼻筋、細く美しい眉を見れば、それだけで美人である事が伺える。  しかし、色白である彼女の双眸は切れ長で、そこに浮かぶ赤味を帯びた瞳とハッキリ引かれた紅い口紅が些かきつい印象を与えていた。それに追い打ちをかける様に、細めのスクエア型眼鏡を着用しており、ともすればその姿は女教師を連想させられた。  そして残念な事に、その風貌は彼女の性分を如実に浮かび上がらせていたのだった。  千勢のその余りな血相に、自然と周囲の者達は彼女から距離を取っていた。  もっともこれは、触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近寄らずといった処で、チームの雰囲気は悪くなってはいない。どちらかと言えば、千勢の癇癪が収まるまで遠巻きに見ていると言った風情だ。 「……千勢さん。HRTはこの事を把握していなかったのか?」  そんな状態の彼女へ唯一話し掛ける事の出来る勲矢那美が、千勢と同じようにモニターを見つめたまま質問した。 「……そうね、残念だけど。SRCがエンジンを含めたマイナーチェンジを進めている事は当然掴んでいたわ。でも、導入は来シーズンからという情報だったのよ。まさか今期……しかも終盤で投入してくるなんてね」  那美に話し掛けられて、千勢のヒステリーは鳴りを潜め、嘆息気味にやれやれと両手を肩口まで持ち上げて返答した。ややお道化ているようにも見える仕草だが、これは周囲に怒りが静まった事を知らしめる為でもある。 「HRTはこれについて、どの様な見解を示しているんだ?」  完全に後れを取ったことは否めない。しかしだからと言って、指を咥えて現状に甘んじている訳にもいかなかった。那美はプロとして、HRTのエースライダーとして今後の展開を千勢に問い掛けたのだ。 「……今季、残りレースも少ないわ。恐らくだけど、余程の事でも無い限りは現状での対応を求められるでしょうね」 「つまり……何もしてくれないという事ね」  遠回しに答えた千勢の台詞に、那美は些か苛立ちを滲ませて要約してみせた。それを聞いて千勢は、嘆息と共に小さく頷いて返答したのだった。  ライダーの技量がレースを左右する事は往々にしてある。特に、などは、それが如実に差となって現れるだろう。  だが、マシン自体に格差があった場合は、ライダーの技量だけではどうしようもない。技術だけで埋められる差など、そう多いものでは無いのだ。  千勢の反応を見て、那美は無言でヘルメットを手にすると愛機の方へと歩き出した。 「……勝てるかしら?」  那美が再びコースに出ると察して、千勢がその背中に声を掛けた。如何に不利な状況でも、ライダーはただ只管走る事を求められるのだからそう考えるのは当然だろう。  しかし、このレースに勝利出来るかどうかはまた別の話だ。圧倒的に不利であり明らかに虚を突かれた事実を前にして、那美がどう考えているのか千勢は知りたかったのだが。 「……私は、今回のレースでコースレコードを出す」 「……驚いた。……言うわね」  返ってきた答えは、完全に千勢の想像を超えるものだったのだ。  那美は殆ど躊躇なく答えているが、コースレコードを更新するなどという事はそう簡単な話ではない。  マシンの技術が日進月歩で進歩しているのは間違いなく、毎年少なからずその戦闘力を上げている。それでも、コースレコードを樹立するには幾つもの条件が必要となる。  ライダーの技術、マシンの性能、その性能を引き出すセッティング、天候、路面の状態、ライダーとコースとの相性、選手の体調やメンタル状態等など。それらが幾つか……出来るだけ多く整わなければ、マシンを速く走らせる事は不可能だろう。  だからこそ、コースレコードは毎年毎レース更新されると言う訳ではないのだった。  それが分かる千勢だからこそ、那美の発言には驚かされた訳だが。 「だがそれでも、ポールポジションを取るのは難しいだろう」  続く那美の台詞を聞いて、千勢は再度吃驚し絶句させられていた。  国内250CCのレースにおいて、那美ほどのライダーは存在していないと千勢は確信している。事実、本来ならば那美は今年から海外に挑戦する予定だったのだ。そしてそれを推進したのは誰でもない千勢だった。  千勢の認識では、那美はどの様な状況でも戦わずして負けを認める性格をしていない。意外に潔い性格は、勝敗が決したならば素直に認め受け入れる質だ。  ただしそれも、勝負を行い全力で戦った後の話である。  元来誰よりも闘争心があり負けず嫌いで、勝利に貪欲な那美が、タイムアタックに入る前に勝敗を口にするのを、千勢は初めて聞いたかもしれなかった。 「ただ……大人しく引き下がるつもりもない」  言葉を発せずに立ち竦む千勢へ向けて、那美はそれだけを残すとそのまま歩を進めだした。向かう先には、鮮やかなトリコロールカラーに塗られたゼッケン1のマシン。  そんな後ろ姿を見て、千勢は那美を美しいと感じていた。それはただ単に表面的なものでは無い。  女王の風格を兼ね備え、内面から滲み出るオーラの様なものが、那美の容姿を更に際立たせて神々しくも感じさせていたのだ。 「……頑張って」  眩しそうに……もしくは羨ましそうに目を眇めて、千勢はただそれだけを那美へと送ったのだった。
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