絶対差

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絶対差

 コース上に出た那美は、そのまま数周を消化した。無論その間、ストレートやコーナーで様々なトライを試み、セッティングを出すデータを取っていく。  各チーム……特にワークスチームともなれば、実に多くのデータを有している。またテストの為にサーキットを貸し切り使用した事が幾度もあり、コースデータも豊富だ。それはワークスチームだけでなく、千晶たち高校生チームにも及ぶ。……しかし。 『130RからS字コーナーに突入した後の挙動に不満を感じる。何とかなるか?』 『そこからはタイトなコーナーが連続しますからね。……でも、少し弄ってみますよ』 『ああ、宜しく頼む』  走りながらも那美は、ヘルメット内に装備されているインカムを用いてその様な会話を逐一ピットと繰り返していた。もっとも、そんな事は全てのチームが行っている事なのだが。  如何に多くの資料を有していようとも、それらは全て「過去」のデータに過ぎない。参考にはなるだろうが、今年この時の状況を決定するには至らないのだ。  だからこそ殆どのライダーたちは、フリー走行時に精力的な走行を行い、可能な限りデータを出してセッティングを煮詰めてゆく。無論、驚くほど過去の資料とマッチングしており、殆ど調整する必要が無い場合もあるが、それは本当に稀では無いだろうか。  そんな走行を5周ほど熟した……その時。 「……来たな」  那美は肩越しに、明らかに周囲から傑出しているマシンの接近に気付いて独り言ちた。彼女の口にした通り、後方より異彩を放っているかとも錯覚するほどの速度で、白を基調としたマシンがみるみる那美の機体へと接近を果たす。  ―――ゼッケン46。スズキRGBγ250二式改。  それを駆るライダーは、SRC国内250CCクラスエースライダ―、岸本美紗だ。  今はヘルメットに覆われてその表情を知る事は出来ないが、短く切り揃えられた深緑に見える黒髪と、鋭利ささえ感じられる黄色み掛った瞳を湛えた眼差しが特徴で、一見すると冷たい印象を周囲に与える。なまじ端正な顔立ちであるだけに、強腰な性格と勘違いされがちだが、実際は物静かであってもその様な事は無い。  しかし……万事において冷静ではある。 (……勲矢那美。こんな所にいたのね)  那美が美紗の接近に気付いた様に、美紗もサーキット上において那美の存在を忘れるような事はない。何よりも那美がゼッケン1を付けている随一のライダーだという事もあるのだが、既に8戦を戦いその実力を目の当たりにしているのだから当然の話だろう。  美紗は今期よりSRCのエースライダーとして起用され、日本GP250は今年が初参戦だ。だからこそ、その実力に反してゼッケンは46を付けている。  高校や大学のレースで活躍した者が多く参入してくる日本GPにおいて、美紗の経歴は実に謎が多く、それまでどこで何をしていたのかは殆ど公表されていない。  だがその実力は折り紙付きであり、誰も彼女がSRCのエースライダーでいる事に異議を唱える者などいなかった。……チーム内にも、チーム外にも。  現在のランキングは4位と、初参戦としては申し分ない戦績なのだが、残り2戦でその順位を大幅に上げる可能性さえ秘めていた。  ―――彼女の実力と、新しいマシンの性能によって。  瞬く間に那美の後方へ付けた美紗だったが、驚くほどあっさりと那美は美紗にコースを譲り前へと行く事を許した。 (あら……。思った以上に冷静なのね)  フリー走行とは言え、ある程度の抵抗を考えていた美紗は、那美の余りにも潔い対応に肩透かしを食ったような感覚に捉われていたのだった。  美紗が先ほど出したタイムを那美が知っているのは考えるまでもない事だった。それを思えば、ある程度の抵抗をして来る事が予想されたのだ。……新しくなったRGBγの性能を探る為にも。  しかし、その様な事も無くすんなりと道を譲られては、美紗が拍子抜けしてしまうのも無理は無いのだが……それも、杞憂であったようだ。 (ああ……ついて来るのね) (黙って先に行かせる訳が無いだろう)  先行する美紗が駆るRGBγ250二式改を、那美が操縦するNFR250Ⅱが追走する。未だフリー走行であるにも拘らず、その2台が発する雰囲気はレース中のそれだ。  那美が美紗を前へと行かせたのは、偏にスズキRGBγ250二式改を間近で観察する為だった。 (……見せてあげるわ。ただし……じっくりと見れるならね) (……面白い)  まるで会話をしているかのように、2人の思考は交錯する。そしてそれを現すように、2台のテールツゥノーズが開始されたのだった。奇しくも現在地点は最終コーナーを抜けた先であり、ホームストレートを抜けた美紗と那美は縺れる様に第1コーナーへと突入していった。  RGBγ250とNFR250Ⅱの順で第1コーナーへと突入する。最高速度に達していた2台は、殆ど右90°に曲がっているコーナーを抜ける為に、美紗たちはフルブレーキングで減速し6速から2速まで落とす事になる。 (く……くく)(う……く……)  急激なスピードダウンの為に上体を起こし全身で風を受ければ、ライダーに凄まじい重圧が加わり気を抜けばマシンから振り落とされそうになる。それに堪える為、美紗と那美は歯を食いしばってハンドルを握り締めなければならなかった。  まるで糸で繋がっているかの様に、2台は後輪と前輪を突き合わせる様にして第1コーナー、そしてすぐに続く右90°の第2コーナーをクリアし、1つ目のストレートへと突入する。 (やはり……速い!)  立ち上がりのスロットルを開けるタイミングは殆ど同じ。前と後ろと言う関係上、僅かに離されるのは仕方のない事とは言え、NFR250Ⅱのフルパワーを以てしても付いて行くどころか引き離されると言う現状に、予測していたとはいえ那美は驚きを隠せないでいた。  だがそれも、今度は左90°に折れ曲がる第3コーナーが近付くまでの話だった。しかしそれは、何もコーナーが接近した事で美紗が減速体勢に入ったから……と言う訳ではない。 (意図的に……速度を緩めているのか)  コーナーを回る為に減速するには僅かに早いと思われるポイントで、那美は美紗の背後に付く事が出来たのだ。実力差に大きな開きがありそこを突いて那美が間合いを詰めたならばともかく、相手はSRCのエースライダーである。そのような隙を見せたり単純なミスをするなど考えられる訳もなく、那美が手を抜かれていると考えるのも当然だと言えた。  そしてその考察は、間違っていない事がこのコーナーで証明される。  第3コーナーも左90°、だが30Rとかなり急でキツイコーナーとなっている。当然減速も急激に行われ、その速度差のコントロール如何では立ち上がり速度が次の第4コーナー……左90°、比較的緩やかな70Rとその先に続く直線の速度に影響する。 (……やはり) (うっふふ……)  そこで美紗は、驚くべき旋回速度を見せつけた。第3コーナー入り口では殆ど同じくらいにまで減速していたにも関わらず、出口の時点では車間も、そしてその脱出速度も明らかに差をつけて立ち上がったのだった。  その余りに鋭いコーナーワークは、那美をして前を行く美紗のマシンがまるで消え去ってしまったかと錯覚してしまう程に滑らかであり且つ素早かった。そしてそれを見たからこそ、彼女は全てを悟ったのだった。  現在行われているのは、言うまでもなくフリー走行である。ここで幾ら速かろうとも、タイムアタックや決勝の結果には何ら関りがない。  そしてそんな事は、無論那美も、そして美紗も分かっている。普段であれば、那美も然して気にするような事は無かっただろう。 (手強い……な) (あら……。もう終わりなんだ?)  しかし那美は、第4コーナーでは明らかに気を抜き、、前を行く美紗はそれを察して嘆息したのだった。もっとも美紗の方は速度を落とす事も無く、そのまま3つ目のストレートを疾駆していったのだが。  那美が突然スピードを緩めたのにはそれなりに訳があった。  本当ならば美紗に食らいつき続け、RGBγの性能や特性を根こそぎ引き出す試みを行うのも悪くはない。そうする事でチームにデータを供給する事にもなり、本選に向けた対策を講じる事も出来るだろう。  だが那美がそうしなかったのは、それが無駄だと察したからだった。少なくとも、今回のレースに関しては。  何故ならこの第2ストレートから第3コーナー、そして第4コーナーに掛けての区間は、今回のレースにおいて那美が最も自信の持てる区間であったからだった。  那美のタイムも、これが限界と言う訳ではない。彼女が千勢に宣言した通り、彼女はまだまだタイムを縮めるつもりでいる。だがしかし、それは他のチームも同様なのだ。  それを考えれば、殆どセッティングが出て手を加える予定のない速度域やコーナーで引き離されては、現状では負けを認める以外になかったのだった。
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