荊棘の道

1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/59ページ

荊棘の道

 日本GP第9戦、ツインリンクもてぎ。その2日目となるタイムアタックが開始された。  開場となる9時から各チームは率先して準備を開始し、ライダー達は我先にコースへと飛び出していった。これはすぐにタイムアタックへと突入する為ではなく、今日のコースのコンディションやマシンの状態、自身の調子などを確認する為だ。  無論その中には、HRT(ホンダレーシングチーム)のエースライダーである勲矢那美や、SRC(スズキレーシングクラブ)の岸本美紗、KMR(カワサキモータースレーシング)の漆原凛子にYRF(ヤナハレーシングファクトリー)の間宮乃彩、そして翔紅学園の本田千晶や第一宗麟高校の佐々木原雅と小清水明楽、捷報学園(しょうほうがくえん)の藤堂香蓮に剋越高校(こくえつこうこう)の西島喜久李の姿も伺えた。 「私やマシンに問題はない」  数時間が経過し、幾度目かのピットインを果たした勲矢那美は、待ち構えていた結城千勢へ表情を変える事も無く淡々と報告した。それを聞いて、千勢の方はどこか厳しい顔つきで頷いて応じたのだった。  この表情の違いには、明確な理由があった。  那美はエースライダーとして、プロとして、そして何よりも自分の矜持に従って、現状で最高のパフォーマンスを行うのに手は抜かない。それは周囲の者、誰よりも千勢が十分に理解している事だった。 「……そう」  言葉少なく答えた千勢の顔が固いのは、現在の自分達と他チームとの戦力差を鑑みての事だった。  昨日のフリー走行時に明確となったスズキ製マシンの躍進。そして、以前より胎動していたカワサキ勢の圧力により、その他のメーカー製マシンを使うチームは劣勢に立たされている。そして今のところ、その打開策は無い。これには、如何に敏腕のマネージメントを見せる千勢であっても手の打ちようがなく、那美に気休めを言う言葉すら無いのが実際だった。  勲矢那美を始めとしたHRTの面々が感じていた事は、当然ながら他のチームも感じている。 「今は、打つ手が無いわね」  それは、本田千晶率いる翔紅学園第一自動二輪倶楽部でも同じであった。そして千晶は、千勢が考えている通りの言葉を、嘆息と共に発していた。  白を基調としたライダースーツは彼女の曲線を見事に浮き上がらせ、そのスラリと伸びた手足をも強調している。バイザーを上げてヘルメット内の流れる汗をタオルで吹きつつ、それでもその瞳には落胆が浮かんではいなかった。 「あら? でも、それほど悲観的では無いのね」  これ見よがしとまではいかなくとも、明らかにわざとらしく大きな溜息を吐いた千晶に対して、美里はニヤリと笑みを浮かべて問い掛けた。それを受けて千晶も、悲壮感を全く感じさせない笑みで応じる。 「まぁ……ね。悲観しても、何か対応策がある訳ではないし、現状が好転する話も無いしね」  余りにも自然体でサラっと答える千晶の姿に、美里は思わず見とれていた。好転する兆しさえない状況でも、その悲観する事のない姿は彼女の美しさをより主張していたのだった。 「事態は厳しさを増しても、こちらに打開策は無いわ。今は出来る事を最善に行いましょう」  マシンの性能差で圧倒されては、ライダーの技量で何とか出来る事は限られている。今は千晶の言う事以外に取れる選択肢は無く、美里たちスタッフも強く頷いて応じていた。  完全に納得は出来ていなくとも、折り合いをつけて受け入れて黙々と行動する者もいれば、必ずしも全員がその限りではない。  美しくウェーブ掛った紫紺の髪を綺麗に後ろ手に纏めていたであろうが、それも長時間の走行とメットを取った影響で僅かに解れ、汗の伝う頬や額に僅かに張り付いている。それでも彼女の美しさは損なわれる事は無いのだが、今はきつく寄った眉根がそれも幾分台無しにしていた。  オレンジを基調としたライダースーツに浮かび上がるスタイルの良さが艶めかしく、とても18歳の高校生には伺えない。そんな彼女は今、非常にプリプリと機嫌を損ねていた。 「もうっ! 何なのよ、一体っ!」  手にしたヘルメットを叩きつけるような勢いで、佐々木原雅は不平を鳴らした。勿論、本当にそれを実行したりはしなかったのだが。  だがその余りな剣幕に、周囲の者は誰も声を掛けられずにいたのは本当の事だった。 「直線で太刀打ち出来ないだけなら仕方がないけど、コーナーでも敵わないなんて……なんなのよ!」  今回のレースで投入されたスズキRGBγ250二式改の性能に抑え込まれて、しかもヤナハ製マシンが得意とするコーナーでもやり込められて、雅はぶつけようのない苛立ちを露わとしていたのだった。  雅とて、今の状況がどうしようもない事だとは理解している。……頭の中ではだが。  しかし思考と感情は別物であり、頭では理解していても沸き上がる苛立ちを抑えるには、大人ぶってはいても雅はまだまだ子供過ぎると言って良いだろう。実際彼女は、まだ18歳の女性なのだから。 「兎に角っ! 出来るだけセッティングを出して、ギリギリまでタイムアタックを続けるわよ。みんな、大変だろうけどお願いねっ!」  それでも、今ここで癇癪を起していても事態は好転しない。出来る事と言えば、可能な限り周回を重ねてタイムを出すだけだ。  それが分かっているから、周囲の者達も力の籠った声で雅の呼びかけに応えていたのだった。  ホンダそしてヤナハといったスズキ以外のマシンを使用しているチームは、概ねスズキ製マシンの後塵を浴びて歯噛みしていた。そしてそれは、前回のレースで新エンジンを導入し勢いを増すカワサキ勢でも同じであった。 「……意外。……予想外。……完全に意表を突かれた?」  黙々と、淡々と、しかし精力的に周回を重ねていたKMRのエースライダーである漆原凛子は、ピットに戻りマシンをメカニックに委ねると、メットを取りドリンクを口にして静かに呟いていた。  色素の薄い紫掛った長い髪を束ねるでもなく無造作にヘルメットの中へと押し込んでいたのであろう、ただでさえも手入れが行き届いていないその髪はボサボサと言って良い状態になっているのだが、それを本人が気にしている様子はない。  華奢と言って良い細い体にピッタリと張り付く薄紫色のライダースーツには凹凸は少なく、一見すると少年のような佇まいなのだが、その長い髪が女性を辛うじて表している。もっともその顔にも化粧っ気は無く、本人もそれを気にしている様子は無いのだが。 「ホンダは……後れを取ってる。ヤナハも……同じ。なら……勝てる?」  誰と話すでも打ち合わせるでもなく、ただ中空を見つめてブツブツと呟く彼女へ声を掛ける者は居ない。その怪しい雰囲気が、他者を寄せ付けない様にしている風でもある。 「でも、私なら……今のカワサキのマシンなら……やれる?」  ここまでコースを走り、時にはスズキのマシンを目の当たりにしても、凛子の口からは勝ちを意識する言葉が紡がれていた。  彼女の性格から、出来ない事をあえて呟くようなことは無い。それはつまり、今のカワサキマシンの戦闘力ならばスズキマシンに太刀打ちできるという確信を得ている事にもなる。 「ふ……ふふふ……あはは……あっはははっ! ぎゃあぁっはははははっ!」  だが流石に、これまで不気味に……物静かに独り言ちていた凛子が、突然大笑いを起こした途端、周囲はビクリと慄き動きを凍り付かせていた。この奇行も初めてでは無いのだが、前触れなく行われては慣れようがない。  騒々しいサーキットの中で、僅かな間このピットだけが静寂に包まれていた。  もっとも、それもそう長い時間ではなく。 「行ける……やれるわ。このレース……勝ちに行く」  それまでの大声が嘘の様に静まり、再び聞き取りにくいほどの小声でポツリと漏らした凛子の顔には、危ないまでの笑みが浮かび上がっていたのだった。  そして、これまでに注目の的となっているSRCの岸本美紗も、静かに闘志を燃え上がらせていた。 「……うん。……行ける」  彼女は開場して1時間ほどコースを周回した後は、ピットにて瞑目し動かずにいた。もはやタイムアタックを終了したのかと思いきや、マシンは何時でも出られるようにスタンバイさせたままである。  そうして2時間近く、美紗はただ目を瞑り動きを見せずにいたのだった。  だがここに来て、彼女は小さくポツリと呟くと目を見開き、ヘルメットを手にした。  短く整えられている光の加減で深緑色にも見える髪をヘルメットへと押し込むと、バイザー内から光る黄色味を帯びた瞳が愛機を見つめる。  暫くはその状態で動きを止めていたのだが、スラリと伸びた手足が不意に再起動してマシンを掴み跨った。白を基調としたマシンに、美紗の身を覆う紺を基調としたライダースーツが良く映える。 「このレース……取るわ」  誰に言うでもなくただポツリと独り言ちた美紗は、そのままアクセルを開けてマシンを発進させたのだった。  様々な騒動や思惑が交錯する中で、このレースの趨勢を決めるであろうタイムアタックは佳境へと突入して行く。
/59ページ

最初のコメントを投稿しよう!