Stop-And-Go

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Stop-And-Go

 時刻も昼を回り、残り時間はもうあと僅かだ。  季節は秋も深まり、日没も目に見えて早い。それを考えれば、タイムアタック終了となる午後5時まで周回出来るとは誰も考えていなかった。  また、路面温度もあっという間に下がってしまう。これではタイヤのグリップ力にも期待が持てず、最高のパフォーマンスをする事は難しくなってしまうだろう。  それでもピットを飛び出した岸本美紗は、すぐにタイムトライアルを敢行するような事はしなかった。自分のベストだと思えるタイミングや、他のライダーの状況などを見ながら、出来るだけコースがクリアーとなる周を模索していたのだが。 (……本田千晶?)  不意に、スタジアムから大きな歓声が上がった。未だに本気でマシンを走らせていなかった美紗の耳にも、それは十分に聞こえたのだった。それと同時に。 『ゼッケン7番、52秒76』  ヘルメット内のインカムから、ゼッケン7番本田千晶のタイムが告げられたのだった。美紗の想像通り、先ほどの歓声は千晶がタイムアタックを敢行して好タイムを出した事に他ならない。……しかも。 (……コースレコードを出したと言うの?)  美紗は声にこそ出さずにいたが、少なくない驚きを抱いていた。  これまでの「ツインリンクもてぎ」における国内250CCコースレコードは1分53秒32だった。千晶はそれを、数年ぶりに更新した事となる。 (ほんと……末恐ろしいわね)  美紗が驚きを露わとしたのは、何もそのタイムを聞いたからではない。それを成したのが、の本田千晶だったという事だろう。  高校生で才能のあるライダーは、実はそれほど少なくはない。今年に限って言えば千晶の他にも、佐々木原雅や藤堂香蓮、西島喜久李と言った各高校の代表格は皆、今すぐに日本GPを戦えるほどのポテンシャルを秘めているのだから。  だが残念ながら、実際に日本GPで好成績を出し続ける事が出来るかと言えばその限りではない。  高校生に高いメカニックの腕前を求めるのは酷な話だし、チームの運営やマシン、部品、設備の供給や設置には限界がある。何よりも、如何にメーカーの出資した学校ではあっても、最新のマシンやパーツが支給される可能性は低い。  それだけ不利な状況に置かれているのだから、レースをするにも始めからハンデを負っていると言って良いだろう。  それでも千晶は、これ以上ないと言える結果を打ち出したのだ。これが驚嘆に値しない訳がない。 (……ん? 勲矢那美が行ったか)  そんな想いに駆られていた美紗の隣を、1台のマシンが華麗にすり抜けて躱して行った。ゼッケンを確認しなくとも、彼女にはそれが誰なのかすぐに分かったのだった。  特徴的なトリコロールカラーのNFR250Ⅱに、燃え滾る様な赤と黒を基調にしたライダースーツ。そして何よりも、そのライダーの発する気迫は忘れようもないものだったのだ。  那美は美紗を気にする事も無く、華麗にコーナーをクリアしていった。そのライディングテクニックは、後方より見つめる美紗でさえ溜息を吐くほどに隙の無い見事なものだった。そしてそんな那美の走りから、彼女が次の周回でタイムアタックに突入すると理解したのだ。 (これは見ものだわ)  千晶がコースレコードを更新した事は、当然那美にも知らされているだろう。そして那美の矜持を考えれば、黙っているとは思えなかったからだ。  美紗は、次の周回も流して走る事に決めたのだった。  そして美紗がS字カーブを抜けてV字コーナーへと差し掛かったその時、再びスタジアムより地を震わすかのような怒号が起こった。彼女はそれが、那美が出したタイムに依るものだと即座に察したのだった。 『ゼッケン1、51秒88』 (52秒を……切ったと言うの!?)  彼女のヘルメット内では先ほどと同様に、那美の出したタイムが具に告げられた。それを聞いた美紗は、今度こそ本当に驚きを露わとしていたのだった。  那美がコースレコードを更新する事は、美紗も薄々分かっていた。それだけの準備は整えてあったろうし、何よりもそんな気迫が那美本人から発せられていたからだ。  何よりも、高校生である本田千晶がコースレコードを更新したのだ。プロのエースライダーである那美が、これを聞いても得ない訳がないと誰でも考えつくだろう。  ただそれも、52秒台での争いだと踏んでいた。美紗から見ても、今のホンダマシンの性能では52秒を切る事は難しいと考えての判断だったのだが。 (本当に……。女帝……と言うよりも、殆どバケモノね)  美紗は心底、畏敬の念を以てそう考えていた。そしてこれで、ポールポジションの行方は分からなくなったとも感じていたのだった。  彼女の考えていた予選トップタイムは、51秒台だと考えていた。それが出来るのはニューマシンを駆る自分を始めとしたスズキ勢か、戦力を投入して来たカワサキ勢であるとも思っていたのだ。  ただし、戦闘力の高いスズキのマシンを以てしても、51秒台を出すのは容易ではない。結局最後は、ライダーの器量に左右されるのが実際なのだ。 (やるしか……ない!)  ここに至って美紗は、決意を強くしていたのだった。  メーカーの威信をかけたマシンを投入して、そうでないマシンの後塵を浴びるなどトップライダーとして許される話ではない。少なくとも、美紗はその様に考えていた。 (……行くわよ!)  それまでの余裕や優位性は霧散し、悲壮感すら漂わせた美紗がタイムアタックへと突入した。  前方に障害となるライダーがいない事を確認し、美紗は最終コーナーである「ビクトリーコーナー」に突入した。ホームストレートを最高速度で通過しなければ、ベストタイムにも影響するからだ。 「く……くく」  溶けた飴のように景色の流れる長いホームストレートで、十分にスピードの乗ったマシンを美紗は殆どフルブレーキングで減速させる。殆ど左90°に曲がる第1と第2コーナーに対応する為だが、どれだけ慣れようともこの際にライダーを襲う減速Gには誰もが辟易とさせられ、それは美紗であっても例外ではなかった。  そうかと思えば、第2コーナーを立ち上がればそれなりの長さを持つストレートが出現する。落としたスピードを再び上げる為に、繊細なコーナーリングと大胆なアクセルワークが要求されるのだ。 「んんっ!」  そして第3コーナーでは、再び左90°に近いコーナーが出現し、急激なスピードダウンが求められる。そしてこれと似たようなコーナーとストレートが、この後もう一つ出現するのだ。「stop-and-goレイアウトコース」とはよく言ったものである。  ただ幸いだろうか、ホームストレートから第5コーナーまでは勾配が少なく、そこより先は緩やかな上りとなっている。減速させるにしても効きやすく、ライダーにとってはスピードコントロールが比較的しやすいと言って良いだろう。  その後130Rを経てS字カーブ、緩いヘアピンとなるVコーナーを次々に熟し、美紗はいよいよ仕上げへと取り掛かっていた。 (ここまでは、悪くない。そして……ここでミスは出来ない!)  Vコーナーを抜けると、眼前には殆ど180°方向転換させられるヘアピンカーブが現れる。30Rときついコーナーは、ここでスピードを誤り脱出速度を落とすと、次に出現するこのコース最長のダウンヒルストレートでの最高速度に影響し、それはそのままラップタイムの結果を左右するのだ。  さりとて、ヘアピンコーナーでは焦って早くアクセルを開ける訳にはいかない。迂闊に加速をしようものなら、ハングオンにて最もバンクさせている状態のマシンは容易に後輪を滑らせるのだ。それが僅かであっても、トップを争うライダー達には致命的となる。 (……よし!)  見事なコース取りとアクセルワークでヘアピンを脱出した美紗は、思わず心の中で喜びの声を上げていた。自分としても、申し分ないスピードでバックストレートへと進入出来たからだろう。  緩いとは言え下り勾配となっているこの最長ストレートは、容易にマシンを加速させて一気に最高速度へと持って行く。ここでライダーは、沈殿する大気が分厚い壁となり、僅かな操作ミスが命の危機を齎す事を嫌というほど実感する。  そんな中で美紗のRGBγ250二式改は、その速度を319Km/hにまで上げて一気にストレートを走破する。 「ぐぐ……」  そしてその先に待つのは、やはり右90°に折れ曲がったコーナーである。凄まじい減速のGに歯を食いしばり美紗はここを理想的な速度で攻略すると、続く2つのコーナーを無難にクリアし、最終コーナーであるビクトリーコーナーへと戻ってきたのだった。
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