確たる決然

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確たる決然

 周囲を威圧するかのような、これ以上ないほどの存在感を醸し出し、1台の白を基調とするマシンが最終コーナー「ビクトリーコーナー」を立ち上がってきた。  そのマシンのゼッケンは……46。 「……速い」  既にピットインを果たしてヘルメットを脱いでいる本田千晶が、ピットロードを跨ぎコースに面する壁越しにその様子を見て独り言ちた。普段はどこか余裕のある風情のある千晶だが、今の彼女の表情は険しい。 「厳しいな……」  先ほどピットインしたばかりの勲矢那美は、ヘルメットを取る事もせずにピット内のモニターより、ゼッケン46を付けたRGBγを駆る岸本美紗の走りを食い入るように見つめて呟いた。  様々な想いがその一言に含まれているだろうが、その内実を知る者は周囲には誰もいなかった。マネージャーである結城千勢でさえ、その本当のところは知る術もない。  公式なタイムトライアルであると言うのに、何台ものマシンがサーキット場にあると言うのに、何故だかホームストレート前は静寂が支配し空気が重く感じられていた。  客席の誰も、そして各チームの全員が、これから何かが生まれようとしていると感じずにはいられない……そんな雰囲気がこの「ツインリンクもてぎ」を包み込んでいたのだ。  そして……美紗のマシンがホームストレートを通過する。 『で……出ましたぁっ! 新たなコースレコードが更新されましたぁっ!』  会場内を流れるアナウンスは、もはや絶叫と言って差し支えない。それも当然だろう。 『きょ……今日は何という日だっ! 何という日なんだっ! たった1日で、3度もコースレコードが書き換えられましたっ! そのタイムは1分……ご……50秒72ぃっ!』  タイムを表示されるよりも僅かに早くアナウンサーが告げ、それに続いて掲示板にも明示される。それでも尚、会場内は未だに静けさが居座り、誰も事の重大さを認識出来ないかのようだった……のだが。  ―――ウオオオオオオオォォォッッ!  まるで津波が押し寄せるかの如く、一度巻き起こった怒号は一気にこのサーキット全体を呑み込み震わせたのだった。先ほど告げられた、そして今も表示されている美紗の叩き出したタイムは、それほどにセンセーショナルなものだったからだ。  それはまるで、本選で優勝を果たしたかのような喧噪であった。だがそれも仕方のない事かも知れない。 「お……おい。50秒台って言ったら……」 「あ……ああ。確か、このサーキットの250CC国際レースレコードに迫るタイムだぞ……」  スタンドから、そして各ガレージより、これと同じような囁き声が飛び交っていた。  現在の250CC国際レースコースレコードは「1分50秒25」である。数年このサーキットでは国際レースが行われていないので、現在ではもう少しタイムが上がっているだろうが、それでもこれまでに国内レースにて抜かれる事は無かった。  これはマシンのレベルが国内外でほぼ同じ水準だと考えれば、残るはライダーの技量であると言わざるを得ない。海外……特にヨーロッパで活躍するライダーは、日本人よりも遥かに速くマシンを走らせる事が出来るのだ。  だが今日、その国際レースで記録されたレコードに日本人ライダーが肉薄したのだ。これに驚かない者はこの場にはいないだろう。 「……千晶」  ホームストレートを駆け抜けていったRGBγの姿はもう無い。だが第1コーナーの方に視線を向けたまま微動だにしない千晶に向けて、美里は遠慮がちに声を掛けた。  普段からどんな時も、どの様な事態が起ころうとも取り乱さない千晶だが、流石に今回はそうはいかないだろうと美里でさえ考えたのだが。 「これで……HRTがどう動くのか見物ね」  美里の考えを覆し、千晶は驚くほど普段通りの表情、そして声音だったのだ。 「そ……それはそうだけど。千晶は……悔しくは無いの?」  千晶の理解者でもある美里も、目の前で示し付けられた驚異のタイムに、何の感情も抱いていない様な千晶の振る舞いには疑問を感じずにはいられなかった。 「悔しい……と言うよりも、羨ましいと言う気持ちはあるわね。それでも、私たちは学生の範疇で、ワークスより与えられた装備で最善を尽くすしかないもの」  そんな美里に対して、千晶は至極もっともな返答をしたのだった。  普段から誤解されがちなのだが、千晶が優れたライダーであり、今回もコースレコードを更新するほどの走りを見せたが、彼女は美里たちと同じ学生である。如何に千晶が本田一族の身内であろうとも、貸与される装備や設備はワークスチームのそれよりも劣ってしまう。どれほど必死に足掻いたところで限界はあり、千晶はそれを十分過ぎるほど弁えているのだ。 「そう……ね。それで、HRTは動くのかしら?」  それを美里も思い出したのだろう、普段の様子に戻った彼女は、どこか不敵な笑みを浮かべて千晶へと問い掛けた。 「……さあ? 残りレースも、今回を入れれば2戦だけ。普通に考えれば、来期より新型マシンやエンジンを投入すると考えられるんだけど」  それを察したのか、千晶も普段通りに美里へと接する。返ってきた答えは、余りにも一般的な見解でしかないが、内情に精通しない者ならばそれも仕方がない話である。  HRTの戦略が分からない以上、2人の間でこの話はここまでとなったのだった。  一方、当のHRTでは表面上は兎も角、内面的には穏やかではいられなかった。  レースと言うのは、ただのショーの場ではない。各メーカーが威信をかけたマシンを用意して、最高だと思えるライダーにそれを委ねて走らせる……いわば戦いだ。 「50秒っ!? 50秒ですってっ!?」  ガレージ裏に停めてある何台ものトレーラー。その内の1台は、作戦会議やミーティングに使用されている。それに乗り込んだ途端に、千勢は並べてある椅子を蹴飛ばさん勢いで大声を上げた。……いや、実際に蹴飛ばしているのだが。  重要な話し合いが行われるだけあり、この貨物室は厳重に防音処置が施されている。だからこそ千勢は、ここへ那美だけを伴ってやってきたのだ。 「備品に当たらない方が良い。壊れたら問題になる」  そんな千勢の背中へ向けて、那美は驚くほど冷静な言葉を掛けると、倒れた椅子を元へと戻した。普段の彼女の気性を考えればこれは些か意外と言えるのだが、コース上以外での那美は当然ながら常識人である。 「あなたは悔しくは無いの!? これまで国内GPでは出せなかった50秒台を、私たちのチームでもあなたでもなく、他のチームの他のライダーに出されたのよ!?」  どちらかと言えば、千勢の方が常日平静の仮面を被って装っているのだ。 「悔しくない訳はない。だからこそ、今回は限界まで攻めたつもりだ。それでも、今の私では51秒を切る事は出来なかった」  那美の言葉が嘘でない事は、彼女が出したタイムが物語っている。それまでのこのコースにおける250CC国内でのレコードは53秒台。今回のレースで、本田千晶が52秒台を出し、那美は51秒台を叩き出したのだ。それまでよりも2秒も縮めるのは、並大抵の事では不可能だろう。 「そ……そうだったわね。……ごめんなさい」  それが分かる千勢だから、素直に那美へと謝罪した。自分が如何に感情的となっていたのか、冷静と伺える那美を見て痛感したのだ。 「それよりも……本部はどう考えているのだ?」  既に現実のものとなったSRCやKMRの脅威に嘆いたり不平を言っていても仕方がない。那美はこれからの事を千勢へと問うた。 「……これまでと変わらないわね。新型のエンジンを搭載したマシンの投入は来季から。シーズンオフに確りとテストを行ってからの投入を考えているみたいよ。……ったく、現場の苦労なんて全く考えていないんだから」 「……それが企業だからな」  毒々し気に吐き捨てた千勢に対して、那美はどこか諦念じみて答えていた。  このやり取りでも分かる通り、実際にレースを行うスタッフやライダーの気持ちと、企業の考えるスケジュールには屡々乖離が見られる。そしてこれは、決して珍しい事ではない。  そもそも、新しい技術や部品が出来上がったからと言って、逐一投入する事の方が珍しい。実戦で使えるようにするには、それなりに時間が掛るものなのだ。 「なら……今あるマシンにテコ入れするしかないな」  それが分かるからだろう、那美は特段がっかりした様子も見せずにシレッと呟いた。 「でも、次で最終戦なのよ? そこまでリスクを負うと言うの?」  ただし、那美の言うマシンへのテコ入れと言うのは、単なる調整の枠では収まらない事を千勢は感じ取り、即座に意見を返した。  僅かに、マシンに影響のない範囲で手を加えるだけならば問題ない。しかし、その程度で今のスズキやカワサキのマシンに敵うとは到底思えない。  千勢が反問したのは、那美がリスクを負ってでもマシンに大幅な改造を行おうと提案しているからに他ならなかった。 「多分……本田千晶ならそう考えるだろうな。それに、ヤナハもホンダと同じように新技術の投入を行わないなら、やはり同じ事を考える者が出て来るだろう」  それは予言だろうか、それとも確信を得ているのだろうか。  那美の言葉に、千勢は明確な反論を持つことが出来なかったのだった。
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