デッドヒートの先

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デッドヒートの先

 焦りは、どの様な者も冷静な行動や判断を鈍らせる。だからこそ、勝負に取り組む者には強い自制が必要となるのだ。  言うなれば、如何に焦りを抑えつつ冷静にレースを進め、その中で出来得る限りのベストを尽くせるか。これがライダーには求められるのだ。 (前へ……行く)  レースは13周目。全21周で争われる「ツインリンクもてぎ」での日本GPも残りは8周となった。  すでに2桁を切った残り周回数を考えれば少ない様に思えるが、このサーキットの全長は1周約4,800m。日本にあるサーキットでも、長距離に部類するものだ。  それを考えれば、KMR(カワサキモータースレーシング)のエースライダー漆原凛子が選択したロングスパートは、やや無謀の色が濃いものだった。  それでも、彼女にはこの選択を採らざるを得なかった。未だ前を行くSRC(スズキレーシングクラブ)エースライダー、岸本美紗に自由な走りをさせる訳にはいかなかったのだ。  新型のパワフルなRGBγ250二式改を駆り、タイムアタックでは他の追随を許さないタイムを叩き出した事を考えれば、凛子の作戦としては早々に美紗の前へと出てその頭を抑える必要があったのだ。 (……どうする? ……行かせるか?)  猛追しすでにテールツゥノーズ状態の凛子を感じながら、美紗は思案を巡らせていた。  残り周回を考えれば、まだスパートをかけるタイミングではない。ここから全力をだして走れば、後半にはタイヤも消耗し、自身も集中力を欠いた走りとなる可能性があるだろう。  しかし凛子を前へと出してしまうと、追い抜くにはやはり苦労する事となる。速度的に優っていても、防御に徹した実力者を躱すのには骨が折れる事に間違いないのだ。  美紗が思案していたのは、そう長い時間ではない。だが、決断し実行に入ったのは凛子の方が早かったのだった。 「行く……抜く……。くふ……ぐふふ……あはは……ぎゃあっはははっ!」  集中力が高まり闘争心が剥き出しとなった凛子は、それは楽しそうに、それでいて狂気を感じる笑い声を発していた。  本当ならばこう言った精神状態の人間は、冷静さや集中力といったものを大きく欠いているとみられるだろう。だが、凛子の場合は逆だった。 (気配が……変わった!? ……来る!)  彼女の発した狂笑が聞こえた訳ではない。ただ、それに伴う気配の変化を美紗は背中越しに感じて勇み立っていた。  単なる無謀な意気込みであったなら、美紗にとって軽く往なす事など造作もない。が、バイクを扱うレースならば数多く熟してきたのだ。その中には、ガムシャラに前へ出ようと仕掛けてくる者も少なくなかった。  しかし今美紗が感じている気配は、これまでに受けたどれでも無かった。それが彼女にとっては不気味であり、より注意を割く事を余儀なくされていたのだ。 「あははははっ! ぎゃははははっ!」  只管に笑い声を上げてマシンを駆るその姿は、の千迅にどこか似ている。だが、根本的の処では大きく違っていた。  今の凛子は、狂癲(きょうてん)沈重(ちんちょう)が同居し見事に釣り合いの取れている状態となっていたのだった。  第1から第5コーナーを経て130R、S字カーブからV字コーナー、ヘアピンを越えて長いダウンヒルストレート。出現する90°コーナーをクリアして最終コーナーであるビクトリーコーナー。コーナーと言うコーナーで、凛子はインからアウトから美紗へ仕掛けた。 (くっ! ……激しい!)  もはや余力を考えていない凛子のアタックは、トップを走り守りに入っている美紗に少なくない圧力を与え続けていた。長いストレートを持つこのコースで、直線では一息吐く事の出来ていた美紗であったが、コーナーでは気を抜く事さえ許されない周回が続いた。  ここで美紗は、本当ならば凛子を先へ出すと言う選択肢も取り得たはずだった。いや、寧ろそうした方が良かったに違いないのは彼女でなくとも気付けたはずである。……平時ならば。  しかし猛烈な仕掛けを受け続け、美紗は凛子を前に出すべきではないと言う思考に捉われてしまっていた。息を吐けない状況が、彼女への正しい思案の答えを閉ざしていたのだった。 (インを取られた!)  レースも残り1/3を切って、いよいよ大詰めとなった15周目。ついに美紗は凛子に捉えられる。  S字カーブ入り口の左コーナー、美紗は内側に車体半分ほど凛子の侵入を許す事になった。完全に抜かれた訳ではないが、インを押さえて自分のライディングが出来る状況でもなくなったのだ。  このコーナーがS字となっている以上、左曲がりの後には右コーナーが控えている。次のコーナーでは、美紗がイン側となるので未だ優位は動いていない。 「ぎゃはははっ! もらったわよっ!」  しかしこのまま張り付かれた状態で次に来る左曲がりのV字コーナーでは、再び凛子がインとなる。今の彼女の勢いを考えれば、そのV字コーナーでは完全に並ばれ、下手をすると前へと行かれるかも知れなかった。そうなれば、その後に続くダウンヒルストレートでも完全に躱し切れるかどうかは不明だ。 (……行かせない! 行かせちゃいけない!)  美紗は瞬時にその事を予測し、その様に判断付けた。この時の決断に、誰も反論を唱えられないだろう。  プランや本来の作戦を問題なく遂行出来れば上々なのだが、レースは一人で行っているものでは無い。参加した者の数だけ思惑があり、それぞれに求める展開があるのだ。  だから、レースは始まればその時々の判断はライダーに委ねられ、ピットが事細かに指示するなど殆ど無い。  S字カーブを越え、V字コーナーへと差し掛かる。美紗の予測通り、先ほどよりもより深く車体を食いこまれた美紗は、凛子にインを明け渡す以外になかった。 (……でもっ!)  そこからヘアピンカーブまでの僅かなストレートで、美紗はいつもよりも強く加速を行った。脱出速度で優る凛子に、頭を抑えられる前に車体を並ばせる事が出来ればヘアピンでインとなるのは美紗の方だ。そうなれば、明らかに美紗の方が優位となる。 「こ……の」  作戦は功を奏し、ヘアピンの手前に到達する際には2人のマシンはフロントカウルを並べるまでに至っていた。このままヘアピンカーブに飛び込めば、美紗の作戦は成功を見たと言って良い。 「ぎゃはははっ! まだまだよっ!」  だが、やはり何事も自身の思惑通りに事が運ぶなど稀である。  タイミング的にも定石的にも、ここは凛子が引いてヘアピンを回るだろうと美紗は考えていた。……いや、誰もがそう思っただろう。  しかし凛子は引くどころか、マシンを並べたままアウト側からヘアピンに突入したのだ。  これ程無理なライン、不利な状態ならば、丁寧にこのコーナーを回るだけで美紗は凛子のマシンを頭一つ抜け出して出ることが出来るだろう。  だがやはりと言おうか、この時の美紗の思考は平静ではなかったと言わざるを得ない。 (行かせない! ……っ!?)  凛子を抑える事に、どこか意地となっていたのか。SRCのエースライダーを張る美紗でさえも、もしかすると焦りを覚えていたのだろう。  ―――美紗の駆るRGBγの後輪がスライドした。  ヘアピンは比較的低速のコーナーだ。普段の速度だったなら、美紗ほどの技量があれば立て直しも容易かったろう。  しかし不運なのか、それとも必然だったのか。凛子を抑えるために、美紗はいつもよりも速い速度でコーナーへと突入していた。  だからこそ、マシンコントロールが成功しなかったのだろうし、オーバースピードだったからこそリアタイヤを滑らせるような真似をしてしまったのだ。 「きゃあっ!」「なっ!? きゃあぁっ!」  そしてそれは、凛子の方にも言えた話だった。  自分のインを取られたならば、素直に引いて体勢を立て直す事に注力すべきだっただろう。30Rときついヘアピンで、何もアウト側から被せる様に競る必要などどこにもなかったのだ。  それでも凛子は、ここで引く事を拒んだ。美紗の前へ出る事に拘ったのだ。  ……その結果。 『な……なんとおおぉっ! ヘ……ヘアピンカーブでゼッケン46、岸本選手転倒おおぅっ! 外側にいたゼッケン2、漆原選手もこれに巻き込まれたああぁっ!』  場内アナウンサーの絶叫がスタンドに木霊する。  それに合わせて、詰め寄せている満員の観衆から、落胆する声が地鳴りのように響き渡ったのだった。
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