終わりを告げても

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終わりを告げても

 ヘアピンコーナーの内側で転倒した美紗のRGBγ250二式改は、すぐ外側を走っていた凛子のZXR-09RRを巻き込みそのままコースアウト、エスケープゾーンで激しい砂煙を上げ重なるようにして停止した。  低速コーナーが幸いしたのだろう、美紗と凛子に大きな怪我の様子は無く、両者ともすぐにスックと立ち上がった。  美紗は、自分の倒れたマシンを一目見て再始動を諦めていた。一見するとダメージなど無さそうにも見えるが、マシンを起こして再びコースへと戻るかどうかの判断はライダーに委ねられる。  恐らくだが、転倒した瞬間に美紗の「日本GP第9戦ツインリンクもてぎ」でのレースは終わったのだ。 「……だめ」  一方で、凛子は倒れていたZXRを起こし走らせようと試みたのだがカウルは破損し、よく見れば前輪のシャフトもやや曲がっていた。これでは、コースに出てもまともに走る事など出来ないだろう。  メットを取り、美紗は天を仰ぎ見ていた。熱気の沈殿するコース上にいる時は感じられなかったろうが、やはり初冬と言えるこの時期の空は、澄み渡っているもののどこか寒々しい。  そんな乾いた空を、美紗はただ無言で見つめていた。その姿にという悲壮感はなく、どこか清々しくも凛々しい。  そしてその奥では、凛子が冷めた視線をサーキットの方へと向けていた。そんな彼女の面持ちにも、悔恨や後悔といった表情は浮かんでいなかった。  本当は、双方ともに悔しかっただろう。負けたくない、負けられないレースで、勝負の結末ではなく、転倒による棄権という結果はすぐに納得出来るような話ではない。  ただ2人共に死力を尽くし、最善と思える選択を採った結尾(けつび)だったのだ。チェッカーを受けた末の話ではなくとも、十分に納得の出来るレースだったのだろう。……レース後にはそれぞれ、小言や雷が待っているかも知れないが。  佇む2人のすぐ目の前を、次々とマシンが迫りくる。本当ならばすぐに避難する必要のある美紗と凛子だが、2人はただマシンを……ライダー達を見つめていた。 (……やはり)  見事なハングオンを決めて通り過ぎてゆく先頭のライダーと、佇む美紗との視線が交錯した。言うまでもその目線の主は、HRTエースライダーの勲矢那美だ。  3番手を走っていた彼女は、上位2人が転倒した事で1位に繰り上がったのだった。  後方からプレッシャーを与える効果は、何も次節のレースへの影響を狙っての事ばかりではない。今レースにおいても、相手に焦らせミスを誘発させる効果もある。  無論、必ずしも対象者が術中に嵌り失態を犯すとは限らない。いや、寧ろそうならない場合の方が多いだろう。  特に、トップを張るライダーはそういった圧力に。それらをねじ伏せてこそ、上位に名を連ねる事が出来るのだ。 (……焦りが出たのね。……気持ちは分かるわ)  だが今回は、本当に様々な要因が絡み合い上位2名の同時リタイアという事態が起こったのだった。  新しいマシンを完全に把握しきれていなかった可能性も十分に考えられ、チーム首脳陣からの不安の声も気に掛かっていただろう。競り合っていた相手からのプレッシャーも計り知れない。  これらの事象が、前を走っていた2人には少なからず作用し、冷静な判断を奪っていたのだ。  そしてこれは、何も美紗と凛子だけに限った訳ではない。那美や乃彩が同じ状況であったなら、同様の結果に至っていた可能性もあるのだ。乃彩が2人の気持ちを理解出来たのは、そういった事情を汲み取っていたからだった。  トップ争いをしていた2人のライダーが同時に退場したからとはいえ、レース自体が終わった訳ではない。残り5周となり、再び順位に変動が現れていた。 「……くっ! ツケが回ってきたわね」  2位を走っていたYRF(ヤナハレーシングファクトリー)間宮乃彩は、後方からの攻撃に辟易させられていた。レースも終わりが見え、後続のライダーが猛攻を仕掛けてきていたのだ。  現在の順位は1位が勲矢那美、2位が間宮乃彩、3位が本田千晶、そして4位には佐々木原雅が上がってきていた。  そんな彼女たちを抑え込むには、乃彩は……いや彼女のマシンは限界を迎えていたのだった。  那美と乃彩の連携は偶然の産物であって、2人が事前に打ち合わせた意図的なものではない。そしてその作戦に、、他者が賛同し協力する義務も必要もないのだ。 (……間宮さん。……悪いですが、抜かせてもらいます)  そして千晶も、そう考えた内の1人だった。  もしも立場が逆転していたなら、千晶も那美に同調した動きをしていたかも知れない。しかしその場合は、やはりレース終盤に後方から来た乃彩から攻勢を仕掛けられていただろう。……現在のように。  そして18周目。もはや精彩に欠ける乃彩を、千晶はいとも簡単に抜き去った。(もと)より、タイムアタックでは千晶の方が遥かに勝っているのだ。コンディションが同じであっても、今の乃彩に千晶を抑え込めるかどうかは不明であったのだが。  これまで自由に走る事の出来ていた那美とは大きく水を開けられており、今から追いつくのは至難だろう事を考えれば、この時点で千晶の2位は確定と言える。 (今の間宮さんなら……抜けるわっ!)  そして今度は、雅が乃彩へと襲い掛かってきたのだった。  強力なマシンを抑え込む為に無理をしてきた乃彩にとっては、雅を前へと行かせないのも難しい状態であったのだが。 (これ以上は……何としてもっ!)  ここで順位を大きく下げては、那美に協力した事が全て無意味になる。美紗や凛子へ圧力を掛けるのは、次回のレースを有利に働かせる為だけではない。日本GPという大会において、1つでも順位を上げる為の布石でもあるのだ。  それにも拘らず、ここで順位を落としては全くの徒労に終わる。何よりも、同じマシンを駆る者同士として、意地でも負けられない思いが乃彩にはあったのだった。  マシンの限界を迎えている乃彩と、実力で僅かに劣る雅のデッドヒートは、皮肉にも主役の抜けたこのレースにおいて後半最大の見せ場として観客を大いに楽しませる事になった。  接戦の3位争いはファイナルラップまで縺れ、チェッカーが振られた。  ―――リザルト。  1位勲矢那美、2位本田千晶、3位間宮乃彩、4位佐々木原雅。  那美と千晶は作戦勝ち、乃彩はYRFエースライダーの面目を辛くも守ったのだった。  表彰台に上る那美と千晶、乃彩だが、その表情は3人共に固いものだった。 (今回はこちらの作戦が間宮の御蔭で嵌った形となったが……) (次節最終戦は、こうは行かないでしょうね……)  プロライダーらしい、那美と乃彩はやはり同じ事を思案していたのだった。  今回の手は、次回は通用しないだろう。次は最終戦となり、その次に向けてのプレッシャーを与える事は出来ない。何よりも、今回の事で美紗も凛子も形振り構わずに襲い掛かってくるのは容易に想像出来たからだ。  根本的な解決方法を模索しない限りは、新型マシンを駆る2人に抗うのは難しいと痛感していた。  何よりも、次は日本の誇る「鈴鹿サーキット」での決戦である。ロングコースな上にテクニカルなコーナーを幾つも抱える、非常に難しいコースでもあるのだ。 (……最終戦まで2ヶ月。間に合うかどうかはギリギリね)  そしてここにも、脅威をまき散らす新マシンに密かな対抗を目論む人物がいた。翔紅学園の本田千晶である。  一般的な見解で考えれば、学生にどれほどの事が出来るのかと高を括るだろう。実際、学校の設備や学生の見識では、レースで出来る事などそれほど多くは無い。だからこそ、ワークスマシンとアマチュアマシンには大きな差があるのだ。  しかし事実として、本田千晶や佐々木原雅と言った学生ライダーも、ワークスライダーと互角の走りを披露している。立ち向かうには高い壁であっても、決して敵わないと言う話では無い。  指を咥えて見ているだけでは、決して勝利は訪れやしない。勝つ事を知っている者達は、勝利をもぎ取る為にそれぞれ動き出す決意を固めていたのだった。
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