新たな催し

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新たな催し

 最初から最後まで波乱含みであった日本GP第9戦も終わり、レースウィーク特有の緊張感も霧散した。  各ライダー達はここで一旦気持ちを切り替えて、再び迎える決戦に向けて英気を養う必要があった。  ただそれが出来るのも、職業ライダーだけだろうか。アマチュアライダーの中には、レース以外では一般職業で生活費を稼いでいる者もいる。全員がその様な時間を持てると言う訳では無いのだ。  そして学生である彼女達も、その本分に戻らなければならなかった。  翔紅学園は今、喧噪に包まれていた。とは言えそこには、緊張感や危機感と言ったものは含まれてはおらず、どちらかと言えば切迫感が満たされていると言って良いだろうか。  それもその筈で。 「追加予算申請の報告と、各種使用許可に関する申請書を。現地視察と担当者との打ち合わせは?」 「はい、副会長と書記を動員して当たっています。ただ、申請とはどうしても食い違う部分が出ていて……」 「申請書の修正は事後でも構わないわ。それよりも、実地での問題点を指摘して修正するように指導しましょう」 「はいっ!」  このように、レースを終えたばかりの本田千晶であっても、息つく暇など用意されてはいなかったのだった。  約2週間後に開催される文化祭を控えて、翔紅学園は慌ただしさを増していた。それに伴って、生徒会会長である本田千晶も仕事に忙殺されていたのだった。  生徒会の作業は、文化祭に向けてひと月も前から準備を行ってきた。各クラス及び部活の代表者を集め、催しについての申請と注意事項の打ち合わせも段取りして来たのだ。  無論その殆どの実務は、副会長や書記、実行委員で取り仕切られて来た。千晶がレースを控えていたのだから、それは仕方のない事であり役員たちも納得しての作業だった。  そこに誰からの不満なく、寧ろ充実感さえ与えていたのは、偏に千晶のカリスマに依る処だろう。 「食を扱う催しについては、提供するメニューに注意してね。生ものや直火に依る過熱が必要な物は、重ねて厳禁でお願いします」  しかしだからと言って、全ての作業や打合せを部下に任せっきりで良いと言う話ではない。学園における全ての行事には生徒会が関わっており、その責任者は会長である千晶なのだ。  仮に、もしも何らかの不祥事なり事故が起こった場合、その責任は少なからず千晶も問われるのに間違いはない。だから最終確認や決定は、上げられてきた書類や報告を受けて彼女が行っているのだ。  連日、朝早くから夜も遅くまで、千晶の作業は途切れる事が無かった。日中にも集中して取り組む事が出来れば、恐らくはここまで無理をする必要は無かっただろう。  だが当然の話だが、千晶もこの学園の生徒なのだ。平日昼間は授業があり、千晶もそれに参加して勉学に勤しんでいる。学業免除でもされていれば別となるだろうが、この日本でその様な高校生はまず……いない。 「倫理や道徳、当校の規範に著しく反する催しは厳しく禁止して下さいね。特にコスプレ喫茶、メイド喫茶、個室に案内するもの、人気が無く暗がりを利用するものなどは注意が必要です」  当たり前だが、学校行事である以上、大きくルールを逸脱する事は許されない。文化祭は祭りであり学生の自主性に委ねられてはいるが、あくまでも学校行事である。  学生が学校内で学校行事に取り組む以上、そのルールに従い外れてはいけないのは言うまでもない話なのだ。  しかし残念な事に、この手のお祭り騒ぎには必ず羽目を外す者が出て来る。そして、ノリと勢いでそれに同調する者も少なからず現れるのだ。  教師や生徒会がこれらを厳しく取り締まるのは、何も学校の決まりがあるからと言う訳ではない。  来年以降もこの催しを引き継いでいく。その為には、学校側に余計な介入の口実を与えないのが望ましいのだ。 「あ……あの……。会長……これ……」  書類整理に忙殺されている千晶へ向けて、書記の三年生「井上加奈子」がオズオズと1枚の用紙を提出して来た。その様子は、とても言い難そうで困惑している風情も伺える。  井上加奈子は所謂秀才肌であり、勉学に対しては努力家でもある。ただしその反面、体を動かす事を得意としておらず、いわゆるインドア派であった。  1年の時より生徒会に所属しており、千晶とはその時からの付き合いとなる。  ある意味で美里と同じくらいの交友があるのだが、加奈子の方で未だに慣れずにいる。……と言うよりも、彼女にとって千晶は、もはや崇拝に値するほどの存在となっていたのだった。こうなれば、まともに会話など出来よう筈もない。  千晶は今、これ以上ないほどの多忙に追われている。誰が見ても尋常とは思えない書類の山に囲まれて、それをテキパキと手を休める事無く処理しているのだ。  本当ならば、その姿は鬼神の如きものだろう。八面六臂の働きで、周囲の者をも寄せ付けない鬼気迫る様な雰囲気を辺りにばら撒いていてもおかしくない。  だが、実際はそんな事は無かった。まるで本でも読んでいるか、それとも勉強でもしているかのように。そんな慌ただしい姿を感じさせないほどに、千晶の姿は穏やかなものだった。  ただし、書類の処理スピードは異常と言って良い。手元では驚くべき速さで筆記され、新たな用紙を供給するという作業を、まるで機械が行っているのではと錯覚するほど正確に行われていたのだった。 「あら、それは? まだあなた達で判断の付かない様な企画がありましたか?」  千晶が焦燥感をまき散らさず万事に取り組むのは、付き合いの短くない生徒会員ならば既知の話だ。だから、報連相において今更恐縮するような者はいない。この加奈子も、そんな事で話を切りだし難くするような事もないのだ。……常時であったなら。 「は……はい。風変り喫茶の申請書なのですがその……これまでに無いものでして。それに……」 「……見せてちょうだい」  何故か萎縮している加奈子を怪訝に思いながら、それでも千晶は普段と変わらぬ穏やかな物言いで要求した。  それを受けて、加奈子はまるでご神体に捧げものをするように改まった態度でしたのだった。加奈子本人は真剣に畏まっているのだが、その姿が余りにも可笑しかったのか、千晶はくすりと笑みをこぼしてその書類を受け取り、そのままざっと内容に目を通す。 「……ライダーズメイドカフェ?」  その書類の一番上、催しの表題を見た千晶は、思わず彼女には似つかわしくない素っ頓狂な声を上げていた。だがそれも、仕方が無かったかも知れない。  ライダーズカフェと言うものは過去にもあった。  これはバイク好きが集まり、簡単なバイク用品や記事を展示して、お茶をしながら楽しく語り合うと言うものだった。因みにこの手の催しは、電車や車と言ったものから釣りやハイキングと言ったものまで様々な形で行われており、今回の文化祭でも少なからず実施される予定だ。  更に余談ではあるが、このライダーズカフェが高じて現在の「第五自動二輪倶楽部」となった経歴もある。  無論、これだけの話ならば問題は無い。  メイドカフェと言うものもこれまでに催された。……いや、今回も多数の教室で催される予定だ。  翔紅学園は女子高であり、文化祭であっても父親以外の男性は立ち入り禁止で行われる。世間一般で言う「メイドカフェ」が主に男性向けで提供されている事を考えれば、これは少し違和感を覚える所だろう。  しかし、少なくとも翔紅学園で行われるメイドカフェは、その様に異性へサービスを提供する事が目的ではない。  単純に、メイド服を着てみたいのだ。コスプレとして。  この学園の女生徒たちにも、メイド衣装は人気があった。そして文化祭と言う場では、それを公然と人前で着る事が出来るのだ。 「……一度、私が行って確認してみましょうか。それで、申請しているのは……」  普通のメイド服を着る喫茶やカフェならば、他の役員に任せておいても問題ない。しかし「ライダーズメイドカフェ」と言う初耳の催しならば、改めて確認する必要があるだろう。何よりも、先ほど加奈子が言い淀んだ理由。 「一年……C組。参加者は……一ノ瀬千迅、速水紅音、篠山貴峰、井上沙苗」  主だった参加者の中に、第一自動二輪倶楽部の面々が名を連ねていたからだった。
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