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「くるみさんは、いつもお弁当を持参していらっしゃって、家庭的な方なのかなって、そういうところもいいなって。気づけば好きになっていました。僕にチャンスを頂けませんか?」
そう言って海野さんは正しく頭を下げた。
階段を使う人が私たちの横をちらほら通りかかる。誰も気に留める様子はないけど、この構図は何事かと思われる。
「顔、上げてください!」
「はい」
まだ顔を上げ切らない高さから、子犬のような澄んだ目で私を見上げてくる。
めちゃくちゃ綺麗な目をした人だ。汚れた心を持つ私は直視できない。
身なりに気を使い過ぎるというほどではなく、着られれば何でもいいというほど無頓着でもない感じ。そこは合格だけど、でもまあこの基準、ホワイトカラーの社会人でいうなら90パーセントくらいの割合で誰でも合格できるからね……。
「せっかくですが、ごめんなさい」
海野さんほどではないけど、頭を下げる。
「あっ、恋人はいきなりすぎですよね! せめて友達に……」
「お友達からとかそういうのもちょっと」
下手に情けをかけるのはよくない。
そりゃ好意はふつうに嬉しいけど、とにかくこの男に食指が動かない。あいにく妥協するほど私はまだ焦ってないし、まったく好みの要素が一ミリもないこの人に付き合うほど暇でもない。
「すみません。本当にごめんなさい」
そう言うと、海野さんは、まただらりと体の脇に垂れた両腕のこぶしをぐっとにぎりしめた。そう、私にもわかるほどに。全部顔に出ちゃってる。ポーカーフェイスとか苦手なんだろうな、この人。
「……わかりました。いきなりすみませんでした」
とうとう諦めてくれたらしい海野さんは、私にまたご丁寧な一礼してから踵を返す。
明日から食堂を利用するのはしばらくやめておこうかな、と思ったそのとき、海野さんが思い出したように足を止め、振り返った。
「僕、今日で退職するんです。だから、明日からくるみさんに気まずい思いをさせることはないと思うので」
その表情はあからさまにショックに打ちひしがれていて、それでもその中で精一杯の笑顔を作ってくれているようだった。
今度こそ去って行く。
とぼとぼした背中ではなかった。姿勢のよさはやっぱり何かスポーツで培われたものだろう。
「生きづらそうな人だなぁ」
さぞ生きづらいだろう社会で、山や壁にぶち当たって満身創痍でも正攻法で生きていく人なのだろう。
ごめんね。
私は要領のいい人が好き。
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