特殊疼痛管理チーム

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【一章】 「開け」  胸ポケットに指した薬さじを取り出し、下から上へ『ノ』の字を描くように軽く振ると、調剤室のような光景に変わった。 「何だ?これは?」  診察室の椅子に座った眼の前の患者。飯田啓介は驚いている。多くの患者は同じ反応をするので珍しいことではない。 「今から、薬を調合しますから」  そう話すと、患者に背を向けて備え付けの薬品棚を見つめる。窓から見える陽射しは温かみのある色合いだ。その方向性で組み立てよう。患者のADLも申し分ない。錠剤が好ましいだろう。  処方を組み立てると薬品棚から数種類の薬品を取り出し薬包紙に包む。 「飯田さん。お待たせしました。この薬をお飲みください」 そう話しつつ、コップに入れた水とともに差し出す。 「これを飲めばいいのですか?」 「はい。これが貴方の薬です」  1ヶ月ほど前に末期がんと診断され、余命二か月と宣告された私は、岐阜駅近くの公園のベンチで力なく途方に暮れていた。春の日差しに誘われて、暖かい春風が過ぎ去っていく。桜は今にも芽吹こうと蕾を大きくしているが、何ら感情は湧いてこない。春を待ちわびていた木々や生き物たち。春休みを満喫する小学生たちは公園を走り回っている。しかし、私には何ら意味のない光景。別に死ぬのが怖いわけではない。残された時間一か月しかないのに、何もすることがない私。そんな私の人生を悔いているだけ。  『努力』なんて意識したことはない。常に何かに向かって走り続けるのが当たり前だった。だから、努力したと思ったことなど一度もない。そのため、高校受験、大学受験。そして就職活動も何ら問題なくクリアし、就職後も順調に出世を続け、昨年四十六歳で課長まで出世した。同期入社の百人以上の中でも、二番目に早いスピード出世だった。子供は授からなかったものの、結婚して幸せな家庭を築いていた。  しかし、その妻は新型コロナウィル感染症で急逝してしまった。課長に出世した4か月後の8月のことだった。そして、続けざまに余命宣告を受けた時。人生の中で初めて後ろを振り向いてしまった。  そして気が付いた。私が生きてきた証は何も残らないことを。別に歴史に残る偉業が欲しいわけではない。名誉も求めていない。ただ、親戚付き合いもない私が死んだ時……。それは、社会から消える時。子供や親しい親戚がいれば時々思い出してもらえるかもしれない。でも、それすらも叶わない。初めて感じる孤独。若かりし頃に気が付けば変えることもできたかもしれない。しかし、余命1か月では既に手の施しようはない。だから、公園のベンチに座っている。妻との思い出の公園に。 「今日も会えないか……」  もしかしたら妻が迎えに来るのじゃないかという淡い期待とともに座っている。死んだ妻が現れることなどない。そんなのは分かっている。でも、他にすることがないのだ。 『あの病院の薬剤師に相談すると、最後幸せな顔で死ねるらしい。今度、行ってみようかと思う』 ふと気が付くと私が座る三人掛けのベンチに老夫婦も座っていた。自然と老夫婦の会話が耳に入る。 「おじいさん。その話は秘密でしょう」 「その話。詳しく聞かせてもらえませんか」  生きる理由もなくし呆然と日々を送っていたが、何故か急に知りたくなった。ただ、衝動に狩られた。そして気付けば見知らぬ老夫婦に話しかけていた。 「ほら聞かれてしまったじゃない」 「何故か、この人にも伝えなければならん気がしてな」 「私も詳しくは知らないのだけどね…」  七十代としき男性は、訝しげな顔をしながらも、私が四十六歳の若さにして余命が二ヶ月だと告げると噂話を教えてくれた。  岐阜にある公立病院の薬剤師に相談すると死の恐怖に苛まれている患者が、苦痛から解き放たれたかのように安らかな顔になると。  但し、会おうとしても会えないし、会えたとしても不思議な出来事が起こるとは限らない。全てはその不思議な薬剤師の気分次第。この話は軽々しく話をしてはならないし、ネットに書き込んではいけない。そのようなことになれば、決して救いの手は差し伸べられない。そして、不思議な薬剤師は一年ほど活動を休止し患者が救われなくなると聞いた。全てが疑わしい話だ。医師が治療するならともかく、薬剤師? と思わず聞いてしまったが、信じないのならば、それでいいと会話は閉ざされた。そして、岐阜にある公立病院は何か所も候補がある。どの病院に居るかまでは分からないとも教えてくれた。 「おじいさんは、どの病院にかかる予定ですか?」 「まだ、決めておらん」 「可能性が高い病院はないのですか?」 「わかったら苦労せんよ。不思議な薬剤師がいる病院に受診し入院できても、わしの前に来てくれる保証はないしな」 「その不思議な薬剤師は、どのような患者の前に現れるのでしょう?」 「それは気分次第だそうだ」 「気分次第?? 随分と勝手な奴ですね。人が苦しんでいるのに気分で患者を選ぶんのですか?」 「そう、気分次第らしい。そして、えらく気むつかしいとも聞いている」 「もしかして、裏で高額な報酬を要求されるのですか? 「いや、金は一切貰わないらしい。だから、金持ちだからといって会えるわけではない」 「おじいさん。話しすぎですよ」 「良いのだよ。ただし、君は他人に一切この話はしてならない。もし、そのようなことがあれば、不思議な薬剤師は永遠に君の前に現れないと思ったほうがいい」 「おじいさん。もうダメです。行きますよ」  おばあさんは立ち上がり、おじいさんを急かしている。 「忘れるなよ。もしその人に会えたら『心の処方箋』と伝えろ。それが合言葉だ」 「あの……」  もっと聞きたいことはあるのに上手く言葉にならない。追いかけたいのにベンチに体が張り付いてびくともしない。金縛りにあったような不思議な感覚だ。ただ、一歩一歩離れていく老夫婦を視線だけが追っている。やがて、老夫婦が視界から消えると金縛りのような感覚は失われた。解放された体を動かし、老夫婦が去った方向へ小走りで移動するが、雑踏の中に消え、見つけ出すのは困難だった。 家に帰ると、何かに憑りつかれたかのように数日間ネットで様々な検索をかけたが、碌な情報は見つからなかった。ただ一件。八年前に私と同じように死を宣告された男のブログで不思議な薬剤師の情報を募集すると書き込みはあったが、最後まで見つからないと嘆き悲しむ投稿を最後に書き込みは終わっている。彼が会えなかったのか? 会ってもらえなかったのか?分からないが、少なくとも情報を人々に求めると会える可能性は狭まりそうな気がする。だから、会うのであれば止めたほうがいいのかもしれない。 しかし、『岐阜の公立病院』これが問題だ。岐阜の意味する範囲は岐阜県なのか?どれとも岐阜市なのかで大きく異なってくる。岐阜県であれば、それこそ十五か所を超える。一方で岐阜市に限定すると大学病院も含めれば3か所となる。どちらの範囲を候補とするか悩ましいが、正解の病院を受診したところで会えるとは限らない。選びようがないのだったら、通いやすいよう一番近い病院に受診してみるか……
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