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中埜晴子の説明によると、「水かけ」とは、白内障などの手術中に眼を潤すため、角膜に水をかける医療行為を指す。
そしてここ中央病院では、この水かけを、中埜のような視能訓練士が行ってきたという。
「これって、グレーゾーンなんだよ」
本来、視能訓練士が手術室でおこなえる業務としては、手術に必要な検査データの読み上げ、術式の記入や人工水晶体の管理までとされている。
だがマンパワーや技術不足などを背景に、慣例的に視能訓練士がこれを行うケースは多いというのだ。
「うちでも、そうなんですか?」
「この病院の眼科の扱いを見ればわかる、とても手術助手なんて付けられなかったんだろうね」
「じゃあ、上の人たちは分かっていて…」
「医療の業界にグレーゾーンなんて山ほどあるけどね。幹部連中がそれにあぐらかいてるようじゃダメだよ」
それから中埜は「楠本先生だって、やむにやまれず」と付け加えた。少し声のボリュームが下がったのは、もしかすると楠本医師は割を食った被害者である一方、黙認者の立場にも属すると感じているからかもしれない。
中埜は、それでも水かけを引き受けていた。
「分かってほしいのは、私も、ぎりぎりで働いてるんだってこと。時間と、お金と、それから」
彼女が言った、彼女自身の心のこと。
「人事課のあなたには分かっていてほしいし、分かっているべきことだと思う。勤務割ってそれだけ大事なことなんだよ」
「ええ――そうですね」
そう答えながら、畑野は、ショックを受けていた。
厚生係長として勤務割に携わっているうちに、確かにそれを忘れていたのだ。一人の職員である以上、自分だって同じだったはずなのに、いつしか忘れた。働く人にとっての、働くことの意味を。
シンプルに言えば、多分、ナメていた。
「あとね、もうひとつ気に食わないことがある」
中埜は手加減せず、率直な言葉を続けた。
「青野さんだっけ、あなたの部下。確かに昨日の彼の説明は的外れだったけど、そんなことどうでもいい。私はね、この部屋に来てから、あなたが最初から、部下の不手際って顔をしてたこと。正直言って、ムカついた」
ここまで言われて、何だかもう、どうしようもなくて、畑野は「すみません」と頭を下げるだけだった。
勤務変更の件はとりあえず保留となり、もうこの部屋にいる必要はなくなったので、畑野は事務室へと戻った。
※厚労省では医師の働き方改革に伴い、医師から医療職種へのタスク・シフティングを推進している。2020年には現行制度下において視能訓練士へ「医師の指示の下で、白内障及び屈折矯正手術に使用する手術装置への検査データ等の入力、手術装置の設定・準備やデータ入力等」のタスク・シフトが認められた。ただしここでも、いわゆる水かけ行為は含まれないとされる。
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