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桜端の候
さて、春といえば、畑野にはもうひとつ、忘れられない記憶がある。
あれは桜の花が、散り時を迎えた頃だった。
小学校から中学校へと進学するはざまの春休み。畑野は近所の公民館で行われているピアノ教室に、春の体験レッスンに申し込んで通った。
母は「中学からピアノなんて」と言ったが、当時の自分は何か楽器ができるようになりたい一心で、せめて体験だけでもと強く要望したのである。
そこで、カナトという男の子と出会った。
今では姓も漢字も分からない、かろうじて、年齢は一つ下であることを確認した記憶がある。
さらさらとした綺麗な髪と、絹のような肌が印象的な、綺麗な男の子だった。ピアノはもうベテランで、何度もその腕前を見せてもらった。
「伊織ちゃん。これ分かる?」
その教室でたまたま二人きりになることがあると、カナトはそんなふうにクイズを出す。
「聴いたことあるような…。でもわかんない」
「これはね、早春賦。春の曲だよ」
そうしゅんふ。彼は言うけれど、その文字すらもぴんと来ない。ただ言われてみると、春っぽい曲のように聴こえた。
「あ。おじいちゃんが歌ってたヤツかな。シレトコの何とかって」
急に思い出してそう言うと、カナトは笑った。
「似てるけど、多分違う曲。それは知床旅情だと思う」
それから彼は、おそらくその「シレトコ」と思われる曲も弾いてみせた。確かに似ているが、少し違う。
「そうだ、この知床旅情と同じ人が歌ってる、春の曲があるよ」
カナトは春の曲が好きなのだと言った。
ピアノ教室として使われている公民館の一室には大きな窓があって、そこからは暖かな春の光が射し込んでくる。その光を浴びながら滑らかにピアノを弾いてみせるカナトの姿は、まるでオルゴールに据え付けられた天使の装飾のようだった。
その曲は、春というには、少しばかり切ない曲だったと思う。
「なんて曲?」
「フランスの古いシャンソン。日本語のタイトルはね」
そうして彼は、曲名を教えてくれた。
"さくらんぼの実る頃"
結局のところ、畑野は「自分には無理そう」という理由でピアノ教室には通わなかった。だから彼の弾く曲を聴くことができたのは、たぶん二週間にも満たない。
カナトと最後に話した日、街の桜並木に咲くソメイヨシノは散り始めていた。
畑野が「あれ、もっかい聴きたい」とおねだりすると、彼は快く弾いてくれた。彼の弾く曲の中で、あの曲が一番好きだった。
「さくらんぼは、桜じゃないんだよ」
唐突に、カナトは言った。綺麗な瞳だった。吸い込まれそうな気持ちになって、胸がドキドキした。
「さくらんぼは、ミザクラっていう樹になる果実」
「でも、桜でしょ?」
「ちょっと違うみたい。僕にもわからないけど」
カナトは急に自信を無くしたように、表情を翳らせた。
そこで畑野は、彼がひとつ年下であることを思い出した。こんな天使のような子を好きになることが、まるでいけないことのように感じたけれど、そう思った時にはもう好きになっていた。
何かが、溢れそうだった。
でも、溢れなかった。我慢したのだと思う。
そうして「ばいばい」と言って、彼と別れた。
その春にカナトも教室をやめたということを、畑野は後から知った。教えてくれたのが誰だったか、それももう忘れてしまったけれど、その人が「かわいそうに」と呟いたことだけは、今も忘れられない。
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