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2015年3月31日は、火曜日だった。
畑野が眼科外来で中埜晴子と話してから、一週間が過ぎていた。勤務時間の件は保留となったので、もう当面は考える必要がない。先週それを青野に伝えたとき「ありがとうございました」と礼を言われたので、畑野は少しバツが悪かった。
青野が持っていたほかの業務も、概ね整理がついている。100%の引き継ぎなんてこの世に存在しないことは分かっているし、あとは畑野、小菅、そして小菅の部下である相本の3人で、4月以降の人事課を支えていくしかない。
最終日になって、業務の整理も終わって――。
それでも、畑野の心は晴れなかった。
少しの罪悪感がある。青野に対してというよりも、自分の仕事の甘さに対してだろう。そう自己分析した。それから寂しさもあった。長く一緒に仕事をした仲間が去る、そういうシンプルな寂しさだ。
「青野くん、今日はさすがに忙しいよね」
夕方になって、畑野は声をかけた。
「何かありましたか」
「ちょっと、飲みにいかない?」
そう言うと、近くにいた小菅や相本も畑野のほうを見た。
畑野は、気恥ずかしい気持ちになった。人事課内で飲みに行くことは珍しいことではなかったが、何かを贖おうとしている浅はかな心の内が、回りの人間にバレたような気がしたのだ。
「畑野係長、お気遣いありがとうございます。でも明日の辞令交付の準備もあるから、お忙しいでしょう」
辞令交付会場の設営は例年、勤務時間終了後から行うこととなっている。日中は普通の会議室として使用しているからだ。
「それに――設営が終わったら、早めに帰ります。予定があって」
「そう、分かった。いきなりでゴメン」
それから人事課メンバーは、会場の設営作業に移った。イスを片付けたり案内用紙を貼ったり、受付の会議テーブルを準備したり。ご丁寧に職員証用の写真撮影スペースも作って、備品のカメラも念のために写りをテストする。
設営には、地域医療連携室の連携係長である竹脇も来てくれた。4月から青野の上司になる男である。
「青野、終わったらすぐ行けるか」
折り畳みチェアを重ねながら、竹脇が青野に聞いた。
「すぐいけます、大丈夫です」
何となく察した。青野は竹脇ら連携室メンバーと飲みに行くのだろう。それで畑野の誘いを断った。
「あっ、飲みに行くんですか」
のんきな相本が、その話に参加した。
「まあ新体制の懇親会も兼ねて」
「もしかして花見ですか、夜桜?」
「そんな面倒なことするかよ、『鳥やすみ』だよ」
その店は職員御用達の居酒屋だった。畑野もよく行く。
「桜なんか食えないだろ」
竹脇がそう言うと、青野も相本も笑った。
「あ、でもほら。1本だけあるじゃないスか。食える桜」
思い出したように、相本が言う。
「病院の中庭にある桜、あれさくらんぼの実がなるんですよ。普通に食えるさくらんぼ。俺、腹が減って金がないとき、たまに行って食ってます」
「お前やめろってマジで。患者に見られたらヤバいぞ」
相本は「美味いんすよ!」と反論した。
さくらんぼ――。
畑野は、雑談する男たちの方を見た。よほど怖い顔だったのだろうか。相本はその表情に気づいて、「あ、いや冗談です…」と小さく言い訳した。
「相本くん、中庭の桜って、さくらんぼなの?」
「そ、そうです。知る人ぞ知る」
「ミザクラ?」
「いや、名前は分かんないスけど…」
何だか急に心がざわついて、畑野はそこを飛び出した。
見たい、見なければいけない。そう思った。
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