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 もう外はすっかり暗くなっていた。  会議室を飛び出した畑野は、中庭に向かって走った。それは外来棟、1階の通院治療センターの正面にあって、窓から眺めるだけの小さな空間だ。職員以外はそこに出ることはできないし、職員だって用がなければ出ることはしない。  廊下はもう消灯されていたので、畑野はスイッチを探して点けた。  大した距離があるわけでもないのに、妙に息が切れていた。  窓の外に、一本の樹がそびえている。  よく見えなかったが、花はもう散った後だろうと思われた。実もつけていない。花と実のはざま(、、、)にある、寂しい枝ぶりだった。  しばらくぼうっと、その樹を見つめた。  そのミザクラは、きっと自分のほうなんて向いてもいないのに、畑野はなぜだか、怖い顔で叱られているような錯覚に陥った。  あのとき、カナトが弾いてくれた曲の旋律を、今でも思い出せる。  たった二週間の短い記憶だったけれど、あの数日後に自分は中学生になって、それを機に私服から制服を着るようになったこと、お小遣いの額が増えたこと、携帯電話を持つようになったこと。  それと同じくらい、カナトと出会って、あの曲を知ったことが、重要な出来事だった。  あの曲が、新しい世界を見せてくれたのだ。  大人に言ったら嘲笑われるかもしれないけど、それでもその時の自分にとっては言葉では表せないほど、大きな世界の変革だった。  だけど、カナトはいなくなった。  彼が中学生になるまで、もう1年あったはずなのに。その理由も知らないまま、別れてしまった。  どうしてあの時、冷静な顔で彼に「ばいばい」と言えたのだろう。心が溢れなくて良かった、我慢できて良かったって、あの直後は何度もそう思ったけれど、中学、高校と時間を進めていっても消えない残渣物を、心の底で持て余してばかりだった。  畑野は、自身の感情の起伏を知っている。  本当に伝えるべき時には唇を嚙んででも我慢してしまうくせに、時として手に負えないほどの気持ちが溢れて、人を傷つけてばかりいる。心の内側で躍動する未熟な情緒の存在を、イヤというほど知っている。  青野に勤務時間のアドバイスをしないと決めたとき、本当に彼のためを思っていただろうか。  今さら考えたってもう遅い。彼は明日にはもう部下じゃなくなって、違う部署で違う仕事を始める。  畑野はもう一度、ひっそりと佇むその樹を見つめた。まるで今日初めて会った他人のようだ。でも、そのミザクラはずっとそこにいた。  さくらんぼの実る頃――。  この樹が実をつけるのは、どのくらい先のことだろうか。来週、来月、あるいは数ヵ月も先になるだろうか。  そのとき、忘れずにここに来よう。  畑野はそう決めて、会議室に戻った。
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