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ようやく春の兆しが見え始めた頃だった。
安座富町中央病院、事務棟の2階に人事課があって、畑野伊織のデスクはそこにある。
朝でも昼でも勤務時間中でも、このフロアはいつだって騒々しかった。大した仕事も抱えていない連中は、桜だ梅だと花の話ばかりしていて、のんきなものである。
畑野は、それどころではなかった。
もうすぐ4月を迎えると、畑野の唯一の常勤の部下が、他部署へ配置換えになるのだ。しかも、補充は無し。数ヵ月前に事務長から「減っても大丈夫かな」と打診があって、畑野はずっと悩んでいたが、結果として承諾した。
「今は人事課内の業務バランスが悪い。そこは必ず調整する」
事務長はそう言って畑野を説得した。人事課には人事係と厚生係があって、畑野は厚生係長のポストに就いている。
「小菅くん、そんなに余裕があるように見えませんが――」
人事係長は同期の小菅という男で、ゆっくりと、ふんわりと仕事をする。とてもバリバリと業務をこなすタイプではなかった。
「小菅も了承してくれた。人事課全体の効率化を図りたいと思ってるよ」
「効率化、ですか」
畑野は訝る。事務長という立ち位置から、現場の実情をすべて見渡せるとは思えないのだ。結局のところ彼の言う "効率化" は、人事課長への丸投げになるんだろうなと、畑野は予想した。
さらに言うなら、事務長は我々人事課の仕事を軽く見ている。あるいは、仕事のやり方が悪いと批判されているようにも感じた。
悪いクセだった。こういうとき、畑野は意地になる。
最初は、非常勤でいいから事務助手の補充を要望しようかとも考えた。だが、それすらも言うことをやめた。
畑野の唯一の部下、青野秀敏の行き先は、地域医療連携室だ。病院としては近隣施設との関係性をより強化していきたいという方針があるので、その部署の事務職員を補充するのである。
それはいい。だが人事課だって大事な部署だ。今までだって決して閑職というわけじゃない。それなのに――。
「分かりました、大丈夫です。私と小菅くんで何とかなります」
結果的に、畑野は承諾した。すると事務長は、ほっとした表情を見せた。
人事課の春はいつだって忙しいけれど、この年は格別だ。一人分の業務を、丸ごと他のメンバーで請け負う。
自分で了承したとは言え、考えただけで憂鬱になる状況だった。
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