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3
畑野は、煩わしさを感じていた。
この病院において、勤務時間の管理はずっと前から、人事係じゃなく厚生係の所掌業務だ。青野だってもう新人じゃないのだし、勤務線表のことは十分に経験がある。それなのにこんな余計な時間を取られるなんて、しかもクソ忙しいこの3月に!
「どうしても分からないんです」
青野は就業規則のコピーまで持ってきていた。
「うちの就業規則は、勤務時間が6時間を超えて働くなら45分、8時間を超えて働くなら1時間の休憩を取らせるように定められています」
「そうだね」
「これって確か、労働基準法の34条に準拠した規程だったと思います」
「その通り。法律の求める下限を規則に謳ってるんだよ」
「でも、考えると分からなくなっちゃって」
ここからが本題のようで、青野はひとつため息をついた。
「退勤を1時間だけズラすということは、勤務時間は9:00から17:50ですよね。そうすると、拘束時間は8時間50分になります」
彼はさらさらとペンを走らせる。畑野は頭の中で計算し、間違いないことを確認した。
「この場合、もしも休憩を45分としたら、勤務時間は8時間5分。これは就業規則に照らすと、休憩が足りないってことになりますよね」
「ええと、そうだね。1時間の休憩が必要になる」
「でも休憩を1時間としたら、勤務時間は7時間50分。今度は休憩を多くあげすぎってことになってしまいませんか?」
そこで畑野は、彼の言っている意味を理解した。意味は理解したが、答えがすぐに見つからない。
分からなかったのだ。
「ちょっと待ってね、考える」
45分では足りない、1時間では多い。理屈から言うと、それはその通りだ。じゃあ正解はどこにあるのか。
「係長でも分からないんですか」
その言葉に、畑野は少しむっとした。
答えは必ずあるのだから「焦るな」と言いたかった。まずは考える時間が要るのだ、ベラベラ喋らず、3分だけ黙っていてほしい。
「来週、あの人とまた話すことになってるんです。なんて答えればいいんだろう――」
青野は勝手に話を進め、不安そうな顔を見せた。
その表情を見つめていると、顎のラインに沿って、うっすらと青ヒゲが生えているのに気づいた。
どうもふるまいが新人っぽいので誤解しがちだが、青野は中途採用で、もう32歳という年齢だ。確か、小5の息子までいる。畑野と言えばまだ28歳になったところで、要するに彼は年上の部下だった。
仕事ができないわけじゃないが、いかんせん心配症で気が小さく、妙なところで躓いている姿をよく見かけた。
もう数日で、青野は病院が最も注力している地域医療連携室に配置換えになるのだ。これは抜擢といってもいい。
情けない顔するなよな、と畑野は思った。
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