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春風の候
その年も例年通り、3月の下旬を迎える頃にはだんだんと強い風が吹き荒れ始めて、ほとんど嵐じゃないかと思う日すらあった。
時候の挨拶でよく使われる "春風の心地よい季節" なんてものは、ほとんど幻想だろう。砂ぼこりはひどいし、花粉は飛ぶし、髪はぐっちゃぐちゃになるし、仕事を抜きにしたって春は好きな季節ではない。
だけれども、春のような人、というのは確かにいる。
大学時代のゼミの教授、君塚木葉がまさにそうだった。その当時ですでに初老の齢を迎えていた彼女は、春そのものだったと思う。いつだって穏やかで、のどかで、ゆっくりとした時間軸を悠然と生きているのに、それは緩慢とも愚鈍とも違った。
常々、こんな人がいるのだなと思っていた。
当時の畑野は「このは先生」と呼んで、彼女を慕ったものである。
畑野は自分の感情の起伏をよく知っていたので、彼女のような人間に対しては憧れを抱く次元にすら至らず、どちらかというとペガサスやユニコーンのような架空の生物を鑑賞する気持ちだった。
「畑野さんは、もう大人ですね」
ある時、このは先生に聞かれた。
たまたま、ゼミ室で二人きりになったタイミングだったと思う。
もう二十歳を過ぎているかという意味に解釈したが、それにしても唐突だったので、畑野は「はあ」としか答えられなかった。
「畑野さんと同じように、私も、大人です。だから例えば、大きなつづらと小さなつづらを見せられて、どちらかを選べと言われても、安易に大きなつづらを選んだりはしません」
このは先生は少しだけ、得意気な顔を見せた。
つづら?
なんで得意気?
よく分からなかったので、とりあえず聞くことにした。
「でも、重いつづらと軽いつづらがあったなら、私は重いつづらを選んでしまうと思います」
「――と、おっしゃいますと?」
「最近わかりましたが、私はどうも、重いものに価値を感じる傾向があるようです。もらったプレゼントがズシリと重いと、何だか嬉しくなりませんか?」
畑野は「なるほど」と答えたが、何が「なるほど」なのか自分でも分からなかった。
卒論のテーマ選びで悩んでいる時期だったので、何かの示唆やメッセージかなとも勘繰ったのだが、どうも、そういうわけでもない。
その後、彼女が買ってきていたおはぎを、二人で食べた。
鮮やかなグリーン色に輝くずんだ餅のおはぎで、すごく美味しかった記憶がある。
このは先生とは大学を卒業してから一度しか会っていないが、そのときも当時と変わらず、他愛もない話をしてくれた。
春のような人には、誰だって惹かれる。畑野自身、君塚木葉に惹かれ、彼女とともにいたいと思った。
そうしているうちに、自分も彼女のようになれる気がした。
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