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6
――だったら辞めてやる!
結論から言うと、青野は中埜晴子に、そう怒鳴られたという。中埜はいろいろ問題ありの人物だったが、声を荒げるようなイメージはなかったので、少し驚いた。
怒鳴られた瞬間、青野は肝を冷やしたそうだ。彼女にホントに辞められたら、眼科の診療がストップする可能性がある。自分のせいで、病院の体制に影響を及ぼすかも――と。
彼の陰鬱な表情には、そういう理由があった。
「中埜さんとは、直接会って話したの? どうしてそんなにこじれるの」
「昼間に一度、会議室で。それからさっき電話で」
「どういう説明をしたのか教えて」
「基本的には、勤務時間を変えるのはやめてもらう方向で…」
「えっ何で!? こないだあたし、楠本先生が認めてるなら問題ないって言ったでしょ!」
畑野は思わず大きな声を出してしまった。隣に座る小菅が、少し怯えた様子で畑野と青野を交互に見ている。
「係長に相談した休憩時間の件、結局よくわからなくて…」
やっぱそれかー! イヤな予感はしていたが、まさか答えが分からないからって話自体をもみ消そうとするなんて!
畑野は一瞬めまいを感じたが、答えてあげなかった自分に問題があったのだろうかと思い直した。
「休憩時間の件って、何ですか?」
小菅が聞いてきたので、簡単に説明してやった。
9:00出勤で16:50退勤であるところ、もう1時間後ろにズラしたい。だけど拘束時間が8時間50分となる職員に、何分の休憩を与えるべきか。就業規則に照らすと、どう指定しても合致しないのだ。
「そうか…面白いけど、不思議ですね。規定に欠陥があるのかな」
「違うよ小菅くん、気づいちゃえば簡単なんだけど、拘束時間から休憩時間を求めようとすることがそもそも誤りなの。解はないんだよ、拘束時間が8時間50分となる勤務は存在しない」
「えっ、あっそうか。拘束時間じゃなく、勤務時間に対して休憩時間が定められてるから、先に勤務時間から決めないといけないんだ。盲点ですね、働く側は普通、まず拘束時間を気にす――」
小菅はそこで言葉を止めた。ほとんど驚愕ともいえる青野の表情に気づいたからだ。畑野もその顔に見入った。どうも、答えそのものに驚いているという様子ではない。
「畑野係長…。どうしてわかってて、教えてくれなかったんですか」
「あ、いや…だってこんなこと。自分で考えれ――」
「分からなかったから聞いたのに!」
珍しく彼は大きな声を出した。
「青野さん、落ち着いて。畑野係長は自分で考えてほしかったんだと思う」
「小菅さんは黙っててください!」
やば…。こんなに怒るって思わなかった。畑野はちょっと後ろめたくなって、「ゴメンね」と言った。だがそれよりも、状況を確認しなければならない。
「中埜さんとは、どんなふうに話が終わったの?」
青野は赤い顔をしてしばらく黙っていたが、「いきなり電話を切られました」と言った。
「でも中埜さん、どうしてそんなに怒るんでしょうね」
気を遣ったのか、小菅が少し明るい声色で聞く。だけどそれは確かに疑問だった。
「分かりませんが、水かけがどうのって言ってました」
「水かけ? 水掛け論になるってこと?」
「うーん、何かちょっとニュアンスが違ったような…。仕方なくやってあげてるのに、とか、何とか」
青野の説明はどうも要領を得ない。
こじれるのはイヤだったから、自分が話を聞くしかないかと畑野は思った。
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