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「ヒース! 待ちなさい」
狼狽したヒースの口を塞ぐように、父が物陰に引っ張った。非難の声を上げようとしたヒースを、父の鋭い眼差しが制した。
ぎゃっ、と悲鳴が聞こえた。火事から逃げてきた村人を、布で顔を覆い隠した背の高い男が切り捨てる。切られた村人はその場に崩れ落ちた。
「……ひっ」
ヒースは目を見開いた。いま自分が目にしたものが信じられず、がたがたと震える。襲撃者は一人だけではなかった。何人もの覆面をした男たちが燃えさかる火から逃げまどう村人たちを切っている。そこらじゅうで血の臭いがした。そして何かが燃えるようなむっと鼻をつく臭いが。何者かが村を襲って火をつけているのだと気づいた瞬間、猛烈な吐き気がこみ上げ、我慢したが間に合わなかった。
「どうして……」
地面に嘔吐したヒースの背中を、父の手が慰撫してくれる。涙があふれた。
「ヒース」
無力な子どものようにただ震えて泣くことしかできないヒースの名を、父が普段と変わらない落ち着いた声で呼んだ。
「家に戻って母さんたちを連れて逃げなさい。荷物は何も持たなくていい。とにかく一刻も早くこの場を離れるんだ。――ヒース!」
父に両腕をつかまれても、ヒースは恐怖に立ち竦むだけだった。じんと熱を持つ左の頬に痛みを感じて、ヒースは自分が父に叩かれたのだと気がついた。父が、これまで目にしたことのないほど真剣な顔で自分を見ている。
「だけど、父さんは……?」
「村には自分一人じゃ動けない年寄りもたくさんいる。まだ生きているかもしれない彼らを放ってはおけない。母さんたちのこと、お前に頼めるか」
いやだ、一緒に戻ろうよという言葉を、ヒースは必死に呑み込んだ。こくりとうなずいたヒースの頭を、父の大きな手がくしゃりとかき混ぜた。
「大丈夫だ、父さんのことは心配いらない。逃げ遅れた人を助けたら、すぐにお前たちに追いつくさ。母さんたちのことを頼むぞ」
父の笑った顔が涙で歪んだ。背中に置かれた手に押されるように、ヒースは瞼をこすると、急いで家へと戻った。すでに逃げる準備を整えていた母と祖父に事情を説明する。
「あいつは少しでも村から離れるように言ったんだな。そしたらとりあえず山の西側へと逃げよう。できるだけ近所の人にも声をかけるんだ。いいか、こんなときこそ落ち着くんだぞ」
皆異様な気配には気づいていたようで、協力して近所の人に声を掛け合う。その中にはヒースの幼なじみの少年たちもいた。普段は陽気で明るい少年たちが、いまは人が変わったように恐怖に怯えた顔をしている。
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