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「まあ、そんなわけで。せっかくだから新しく移籍した大学の地元にまつわる伝統について研究しようと意気込んだはいいものの。どうしても、特定の地域についての調査が進まないって話になったみたいなの。そこから通学してる学生も全然いないわけでもないのにね。こういう話があるらしいけど、ってその子たちに尋ねても。全員頑として、全然そんなの聞いたことないって」
さすが、統制が取れてる。まあそうだろうな、あそこの土地柄じゃ。
「何でも周りの地域に漠然と伝わってる話としては。なんか、水が特殊なんだって?子宝の水とか。際立って霊験灼かな湧水がある土地だって言われてるらしくて。そしたら、そういうエピソードが地元に何か残ってるだろうって。ただの伝承にしろ、聞き書きしておこうと思うのは普通でしょ?でもなんか、返ってきた反応が。ん?って違和感を覚えるくらい、警戒感ましましだったみたい」
それでむしろ、周辺部出身ではあるけど今は地元に住んでない。って意味で、県外に進学した北部生まれの子がそっちにいないか。既に外に出ていればもうしがらみもないから、忌憚なく知ってる範囲のことを話してくれるかも。とその先生から依頼が来ていたそうだ。噂話のレベルでいいからって。
それで当てずっぽうに該当する学生を連れてきたら単位確約、と募ってみたら。まさかのピンポイントでわたしに大当たりしたってわけか…。
しかし、思ってる以上に問題のコアな部分絡みの調査だった。それなら村の子たちの不信感ありありな反応も、まあ順当か。
どういうスタンスでこの調査に付き合うべきか。わたしは内心大いに迷った。
「うん。…まあ、そうでしょうね…」
とりあえず曖昧に言葉を濁してグラスを口につけてごまかす。由田さんは不穏な空気を感じたのか、賑やかで明るい居酒屋の座敷の片隅で隣に座るわたしの方をそこでじっと見据えた。
「…何か。心当たりがないこともないの?」
言いたくないなら無理にここで教えて、とは言えないけど。と付け足してこっちの様子を伺っている。そりゃ、意味ありげ過ぎて気になるよな。好奇心くすぐられても仕方ないとは思うが。
ふと思い立って尋ねてみる。
「由田さん。…その村に興味あるってことですか。もしかして、これから研究テーマに選ぶかもって。検討中?」
ありがたいことに彼女はふるふる、と首を横に振った。
「今わたしは研究中のテーマが他にあるから。多分、手をつけるとしたら蒲生先生でしょうね。あの人ならいくつか並行して研究進める余裕もあるし。向こうに移動した教授と共同研究にするって手もあるから」
「そうですか」
男の人なら、まあ。…どうせがっちり防御されて内部には入り込めないだろうけど。誘い込まれて二度と出て来られなくなることはないだろうし、安全ならいいか。
彼女は向かいに座っている若手らしき学生が愛想よく差し出してきた焼き鳥の皿に手を伸ばし、わたしにも取るように促しながら。危機感ゼロの呑気な口調であっけらかんと付け足した。
「もっとも、今後蒲生さんのサポートとして現地に赴く可能性はないではないかな。わたしは一応先生の秘書役も兼ねてるから。講師専任の秘書なんて当たり前だけどいないからね、そんな余裕全然ないし。うちの研究室」
それは困る。わたしは慌てて口を挟んだ。
「いえあの。…由田さんは、なるべく現地には。近づかない方が…。ていうか、女性の方は基本的にやめた方がいいです。研究するにしてもサポートも。絶対に村のエリアには足を踏み入れない方向で考えてください」
こんな、妙齢の綺麗で知的な女性。うっかり村と接点を持ったりしたら、どんな手を使ってでも先方は内部に引き入れようと躍起になるよな。
外部の人には普通は見せない貴重な当時の資料があるとか。珍しい史跡が残ってるとか言葉巧みに誘って、何とか先生や他の学生から上手いこと切り離そうとしてくるだろう。
うんと親切にして気を許させて、信頼関係を築いたと思わせられたら向こうの思う壺だ。
絶対こんな人材を放ってはおかないだろうから。この人を村の人間の視界には入れないように、目を離すことのないよう蒲生先生にしっかり念押ししとかないといけないような気がする。…けど、そしたら。何でそこまで警戒するのか?って。不審に思われるのは避けられないのか…。
「…一体なんだって。そこまで警戒しなきゃいけない、って。考えるんだ?」
すぐ後ろから今、考えてたそのままの台詞が投げかけられて。一瞬飛び上がりそうになるほどぎょっとした。…この声。
思わず反射的にばっと振り向いたわたしの動作は怪しさ満載だったな、と後になってから思う。
隠してることありありなのが誰にでも即、見て取れそう。これでさっきの体調不良はただの偶然のタイミングです。はさすがに無理があるよなぁ…。
と、客観的に省みる余裕もなく。このときのわたしはただ、振り向いたすぐそこに立ってわたしを見下ろしてる感情の読めない蒲生先生のやけに澄んだ瞳を見返して。その場に固まってひたすら、変な汗をかくだけだった。
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