第16章 民俗学者は迷わない

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第16章 民俗学者は迷わない

「…ま、楽にして。そうがちがちに緊張するな。別に取って食おうってわけじゃなし」 「はぁ」 場所は移って、学生街の裏通りにあるかなり小じんまりとしたカフェ、というか喫茶店なのかな。夜は食事やお酒を提供するみたいな何でもありの飲食店だ。とりあえず居酒屋でのゼミ生みんなでの会食はあのあとすぐに解散した。 その後、蒲生先生がわたしと由田さんの二人だけを連れてここまで来たわけだが。どうやら彼の顔を見て一瞬で破顔した店主の態度の気安さから判断するに、普段から通っている自分の行きつけの店を落ち着いて静かに話し合う場所としてチョイスした。って次第らしい。 「あら、こちらはまた。初めてお目にかかる可愛らしいお嬢さんね。教え子の学生さん?蒲生先生の」 一方で由田さんの方とは既に顔見知りらしく、親しげに挨拶を交わしているその店主はやや御年配の女性の方。 ずっと会社勤めだったのだが、引退したあとにだいぶ歳上のご主人が経営してたこのお店をバトンタッチで引き受けてのんびり自分のペースで采配しているらしい。夜も昼も、開いてるときと閉まってるときの法則性が無茶苦茶で読めないのが玉に瑕なんだよな。と後日蒲生氏が愚痴ってるのを耳にした。 まあ、いつふらっと行っても必ず席が空いててがらがらなのがありがたいんだけど。と付け加えもしたので、それで本当にちゃんと利益が出てるのかどうかは不明だ。本業引退後の道楽みたいなものって考えればそれで充分なのかもしれないが。 「まあ。…教え子、と言えるかというと。うん、概ねそんな感じ。って言って差し支えない」 テーブルまで注文を取りに来てくれた店主に対しぼそぼそと適当な返答をする先生。いや、そうなのか?…そうだっけ? 改めて考えてみるまでもなく、わたしはこの人の講義は一つも取ってないし何処のゼミにもまだ所属してない。来年度の希望届すら提出してないから、実のところ同じ大学の同じ学部に所属してるだけの赤の他人なのでは…。とか、この場で人の良さそうなこの店主の方に向けて真剣に訴えてもしょうがないので。結局黙ってやり過ごした。 そこでようやくこの章の先頭へと戻る。ゆったりとテーブルの上に置いた両手を組み合わせ、やや前屈みに話を切り出した蒲生氏の声をわたしはぼんやりと聞いていた。 四人掛けのソファの席。わたしの隣に由田さん、向かいの二人掛けの椅子を占領してどっかと真ん中に座ってる先生。明るい場所でしみじみと彼を観察するのは意外と初めてかも。と内心で考えながらこっそりと上目遣い気味にそちらに視線を向けた。 何となく、暗めの照明の部屋でぼそぼそと俯きがちにこちらに顔を正面から向けずに喋ってるイメージしかそれまでなかった。だから陰気な小さいおっさん、って勝手に思い込んでたけど。 改めて明るいところで真正面から見ると、思ってたよりだいぶ見た目が若い。というか正直年齢不詳。 身長が低めなだけでなく、肩幅も狭くて全体に小柄だ。それでやけにつやつやした若々しい童顔ぽい顔つきだから、冗談抜きで学生に見える。 多分、知らない人がわたしたちを側から見たら。大学院生の知的な大人のお姉さん(由田さん)に連れられた学部生の後輩二人、って組み合わせに思えるんじゃないかな。 わたしも特別大人びた方ではないが、おそらく同い年くらいだと思われそう。格好も自由過ぎるというか。何の権威も威厳も感じられないカジュアル過ぎるどシンプルTシャツにお洒落度の低いくたびれたゆるデニムだ。 まあまだ若手の講師だし。教授でもないんだから、スーツにネクタイとかでなくてもいいのか。と思いかけたが、他の講義で見かけてる先生たちも年齢に関わらずラフな服装の場合もかっちりスーツも人それぞれで、一見誰が教授とか准教授で誰が講師か助教かもまるでわからない。服装はそれぞれの好みで、おそらく立場や役職でこうじゃなきゃいけないって決まりは特にないんだろう。 それにしてもただでさえ見た目が学生そのものなんだから。多少は若い子に埋没せず周囲と見分けがつくように、もう少しまともな格好をだな…。 「…さて。何から始めようか」 店主がにこやかにオーダーを取って、カウンターの奥へと退出する。既に軽く飲んできたあとだから、わたしはもうお酒は無理。と考えて蒲生先生に倣ってアイスコーヒーを頼む。由田さんの方は若干飲み足りないのか、迷いなくグラスワインを注文した。何となく場の雰囲気が緩んできたので油断してたら、蒲生先生は当然本題を忘れてはいないらしく。ふときっぱりした声を出し、改まって話を切り出す。 「君がどうやら、あの村について何か知ってることがあるのは確かだと思う。少なくとも女性が関わるのは避けた方がいいとか。男ならまあ大丈夫そうだ、と判断するだけの何らかの材料はあるんだろう。そうだよね?」 咄嗟に返答に詰まるわたしを気遣ったのか、由田さんがやや遠慮がちに先生。と声を落として彼を咎めた。 「無理にいろいろと訊き出そうとするのは…。追浜さんにも事情があって。話せることと話せないことがあるのかも、しれないし」
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