第16章 民俗学者は迷わない

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おそらくさっき研究室で、脳貧血を起こして倒れたせいで腫れものに触れるような扱いをする他なくなったのかもしれない。蒲生先生は意外につぶらな眼をぱちくりと瞬きさせて、無色透明の光を湛えてわたしを見た。 「…まあ、君が一体その地でどんな知見を得たのかはこちらからは推察しがたいし。今の段階で何が地雷なのかはわからない。だから、とりあえずはただこちらからの説明を聞いてもらいたい。その内容と自身の方で知ってる事実を照らし合わせて、今後僕たちと協力する芽があるかどうかを改めて判断して欲しいんだ」 「…はぁ」 よくわからないが。とにかく今、この場でわたしがあの村でされたことを事細かに詳らかにしなくてもいいらしい。ってことが理解できて、少し気持ちが落ち着いた。 それに、一体どんな経緯でこの人たちが水鳴村に関心を抱く成り行きになったのか。今の段階で既に知ってることがどれだけあるのかは、こちらとしても確認しておくに越したことはない。 巻き添えを喰らいたくないから、と今後蒲生ゼミに関わらないように身を遠ざけても。あとでどんなとばっちりが飛んでくるかわからない状態じゃ、さすがに怖くてわたしも落ち着かないし。 曖昧な返答だったが、二人はそれを無事了承された印と受け止めたらしい。蒲生先生はテーブルの上に置かれた手の指を組み替えながら、落ち着いた声でゆっくりと順を追って話し出した。 蒲生先生が師事してたその人が、◎◎県のその小規模大学に教授として招かれ、栄転していったのが二年ほど前。その当時のわたしはと言えば、既に村から単身逃げ出して県庁所在地の○×市で母の許で暮らし始めていた。余談ながら。 「うちの大学にいらしてたときはまだ准教授で。教授として招聘するからどうか、ってお誘いで向こうの大学に異動されたのよ。おそらくそうやって縁が出来たのをいいことに、うちの大学での次代のポストを蒲生先生に譲られるおつもりだったんでしょうね、先を見越して」 「まだ講師だし。さすがに俺で民俗学の長は無理だろ」 由田さんの解説に横から素っ気なく突っ込みを入れる蒲生氏。なるほど、そうするとうちの大学では民俗学分野で今の時点のトップはこの人なわけか。一応これで将来有望と見込まれてはいるのかな。 「もう間もなく准教授の目が見えてきた頃合いじゃないですか。とにかく、異動ってタイミングと縁だから。話があるときに受けておくに越したことないって考え方もあるでしょ。…まあ、それもあるけど。おそらく異動先では身近なところで民俗学的テーマがいろいろと見つけ出せそうだ、って目論見もあったんじゃないかな、瀬山先生も。あっちの大学は自然に囲まれてて旧くからの定住民も多いし、昔ながらの習俗も色濃く残ってる地域にあるけど。こっちはごく普通のコンクリ固めで無味乾燥で平凡な地方都市そのもの、だもんねぇ…」 店主の方がお待ちどお、と運んできてくれたグラスを礼を言って手にした彼女は軽く嘆いてみせた。そうか、日本民俗学なんてもんを専門にしてる人から見れば。この街はそんな評価になるんだ。まあ、そりゃそうだな。 「わたしはここ、好きよぉ。とっても暮らしやすいし。県内では一、二を争う歴史ある街で、情緒もあるわぁ」 わたしと蒲生先生の前にそれぞれコーヒーのグラスを置きながら、店主の女性が口を尖らせる。瀬山さんはこの街のお生まれでいらっしゃるから、と由田さんは愛想よくフォローした。 「元は古くから栄えた名の通った宿場町ですしね。歴史的な建造物もちゃんと探せばまだ、街のあちこちに残ってるし」 「歴史が専門の人間には見どころが多いだろうな。もっとも早くから開発が進んで昔の暮らし振りはもうだいぶ前から残っちゃいない。だから民俗学研究の立場からすると面白味ある土地とは言えないな」 よせばいいのにあっさり水を差す蒲生氏。 褒めてるようには聞こえなかったが、ちょっと不満そうな女店主を気遣ったのか。無表情に淡々と補足を付け加えた。 「だけど、その分何をするにも便利で快適だ。人口密度も高すぎず低すぎずでちょうどいい。俺としてはここで日常を送るのに何も不足はないよ。住んでる場所が民俗学的なネタの宝庫である必要は特に感じない。研究は研究、生活は生活だ」 わかる。 わたしは思わず共感して深々と頷いてしまった。日本中どこにでもある金太郎飴みたいな地方都市で何が悪いのか。普通に平凡に、周囲から浮くこともなく。誰からも余計なちょっかいかけられず埋没して支障なく暮らせる土地が一番。 「…まあ、そんなわけで。蒲生先生みたいに自分の住む土地が民俗学テーマと関係なくても問題ない,って人もいれば。瀬山教授のようにライフワークとしてその土地に骨を埋める覚悟で公私ともに全て打ち込みたいって方もいるわけで、研究者もそれぞれだよね。あの方はもともと東京から移ってきた人だから。尚更地方の土着の土地に憧れとかもあるのかも。…それで、喜び勇んで生涯をかけてじっくり取り掛かれる研究テーマを探し始めたわけだけれど」 鉄道の路線が通っていないだけあって人の流動性が低く、昔ながらの慣習がまだ色濃く残る地方。そのこと自体は期待通りで瀬山教授は嬉々としてリサーチを続けていたのだが。
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