第16章 民俗学者は迷わない

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当たりだ。 蒲生先生は得意げに自らの勘の良さをそれ以上ひけらかすでもなく、こちらに目を向けることもなくグラスの中のアイスコーヒーにじっと視線を向けながら淡々と先を続けた。 「そういう言い伝えを覚えていたのは周囲のどの土地でも軒並み相当年配の人たちだった。今の若い年代にまでもれなく継承されてるってほどはっきり根拠のある話でもない。だけど、身内の若い女を間違っても一人であの村に赴かせてはいけない。って部分だけは、どうしてか複数の土地で共通してたんだ」 「何でしょう。…不穏に感じますね、それだけ聞くと」 由田さんも微かに眉を曇らせる。二人とも、ここで即わたしの方に向き直ってで、それはどういうこと?って真っ向から問い質したいけどそれは控えてるんだ。と考えるとさすがに申し訳ない。 だけど、あんな話。…まだこの流れでも、いきなり何もかも詳細にぶちまけたら。 どうやっても全然信じられない、突飛な話に聞こえそう。…何なら口にしたわたしの頭の方がどうかしてると疑われないかな。 多分、わたしがこれまで誰にもあの村であったことを何から何まで打ち明けないで来たのはこの身に起きたことを改めて言葉にするのが辛い耐えられない、って理由よりも。 あんな異常な出来事を頑張ってありのまま伝えただけなのに。こっちの正気を疑われたり、何なら欲求不満な頭が作り出した妄想話だろうとか嘲笑われたりしたら…と内心恐れてるからなんだ、ってことが今さらはっきりとわかった。 未だ覚悟が決まらず黙って話を聞くだけのわたしをそのままにして、蒲生先生は視線を伏せて波のない淡々とした声で言葉を継いだ。 「現代でも水鳴村について表向き、大っぴらにそうやって言いふらされてるわけじゃない。だけど、現に周囲の市町村から移住希望者が全然出て来ないってことは。何となくあの村に関わらない方がいいって空気だけは今でも漠然と残ってるんじゃないか」 じっと聞き入るわたしと由田さん。何だか、少人数ゼミで講師の解説を聴講する学生のようだ。…ってそのままか。 蒲生先生はそこで言葉を一端切り、アイスコーヒーをひと口飲んで喉を潤した。 「…完全に根拠なくそこまで根強い忌避感が複数の地で共有されるとは考えにくい。少なくともそう言い伝えられることになった元の話が何かしら何処かに残ってるだろう、と瀬山先生は仮説を立てて。周囲の土地の古い記録や口承をさらに集めていったんだそうだ。…そしていくつかの、真偽は定かじゃないながらもなかなか興味深い古い逸話を何とか発掘するのに成功した」 別に彼がそこで語気を強めたわけでもなかったが、その言葉は思いの外わたしの耳を殴るように大きく響いたように聞こえた。 …やっぱり。多少は何か、周辺の土地に言い伝えられるような出来事だってこれまでの長い年月の間には、なくもなかったのか。 さすがに、全く周囲の地域にあれが漏れ出さないってことはないよなぁ。と納得の気持ちと、やっぱりあれは、せいぜいわたしの前の代くらいからぽっととってつけたように現れた小手先の伝統もどきじゃなかった。本当にずっと昔から、古く受け継がれてきた本物のがちな因習なんだ。…って思いが入り混じり、今さらながら首の後ろがぞっと総毛立つような気分に襲われた。 ずいぶん前のことで最近は急速に生々しい記憶も薄れかけてきて、あれはわたしの頭の中だけで起きてた妄想か、それともとち狂ってうっかり見てしまった強烈な夢かもしれない。ってうっすら思いかけてたけど、もちろんそんなはずはなかった。 あの村で起きたことについては。実際にわたし以外にも、過去に同じ目に遭った人たちが存在してて。その記録が現代に至るまでしっかり残されてたんだ…。 「周囲の土地では古来から、若い女が消息を断つと。その娘はあの村に引き込まれたんじゃないかとひっそり噂が交わされるのがお決まりだったようだ。その話を教えてくれた御老人方は大抵、どうしてそう言われるようになったかって根拠は知らないと証言してるようなんだけど…。そんな中で一件、どうやら女性の失踪に水鳴村が絡んでるらしいと関連付けられそうな記録が見つかった」 蒲生先生は特にメモやノートの記述に目を走らせるでもなく、その脳裏に刻まれた記憶を頼りにつっかえもせず訥々と瀬山先生から聞き取った話を口述した。 それによると、年代はまだ明治維新前の江戸時代。市街地とは反対側の山向こうの別の村に伝わる話だが、水鳴村に嫁入りしかけて数ヶ月後に這々の体で身ひとつで逃げ出して戻ってきた女性がいたらしい。 「細々とながらその村落と水鳴村とは交易があった。そんな中で、渓流で採れた魚だか畑の作物とか何かをちょくちょく水鳴から売りに来る女に見そめられた娘がいて。何でもうちの息子の嫁にどうかと誘われたんだそうだ。息子本人と顔を合わせたことはなかったそうなんだけど、当時はそんな縁談もそれほど珍しくはなかったようだから」 文献によると水鳴の地は当時、周辺の他の村に較べるとだいぶ暮らしぶりが豊かだと評判だった。それでいてあまり内実は周囲に知られていなくて、外部の者との婚姻話が持ち上がることも稀だったらしい。
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