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村の人たちはただの一人の例外もなく村が好きで、皆一生そこから離れるつもりもないとか。全員嬉々として夜はめちゃくちゃな乱交に励んで昼間は澄ました顔して過ごしてる、別に強制されるわけでもないのにこれって変だよとか自分はしたくないと抵抗するような村民は、全然まるっきり出てこない、…とか。
改めて考えれば考えるほど謎だらけだ。でも、こんなこと。あの土地を知らない人には真面目に取り合ってはもらえないんじゃない?
「どう考えても科学的にあり得ない、そんな場所が存在するわけないって普通なら思う。わたしがあの村で見たものや受けた仕打ちを思いきって誰かに訴えても。…そんなの思春期の欲求不満から来る妄想だろとかよくそんなはしたない作り話出来るなとか。簡単に一笑に付されたら立ち直れない…。だって、本当に嫌だったんです。あんな風に自由を奪われて。一生あの村に縛りつけられるのは嫌だった…」
ちょっとフラッシュバック気味かもしれない。声とテーブルの上に置いた手が震え始めるのを止められない、と思ったら。隣に座る由田さんがすかさず自分の手を伸ばしてそれをそっと包んでくれた。
「…思うんだけど。追浜はそこから逃げてきたとき、理解不能な事実や頭の中で整理できなかった感情が多すぎて。とりあえずそのまま自分の中に押し込んで、全部無理やり蓋をしちゃったんじゃないか?」
静かな抑えた声の台詞は蒲生先生のもの。
「村について民俗学的に論文が書けるかどうかとか、学会で発表出来るかよりもまずそれが気になる。相手の正体がわからないまま、その村が成立してるからくりを知らないままで目を逸らしてごまかしてると。いつまで経ってもそれが怖くて直視できない状態は消えないよ。頭の奥にこびりついて固まって根深いトラウマになるかも」
それは。
ばくばくと半端なく暴れる心臓の音で全身をいっぱいにして、冷や汗をだらだらかきながら俯いて思う。もしかしてもうとっくに、なってるのかも。…トラウマ。
蒲生先生は今俺、いいこと言ってる。って気負いもないのか。いつも通り波も情熱もない素っ気ない様子で淡々とその先を付け足した。
「…一緒に村で起きたのはどういうことだったのかを調べてくれる同志がいれば。一人孤立した状態じゃなくて、周りから守られた形で立ち向かえるだろ?少なくとも俺たちは、調べてる途中で君がうっかり村の奥に攫われたりしたら黙って引き下がったりしない。絶対に手許に取り戻すまで、とことんその村の連中と闘ってやるよ」
「…追浜さん。この人は大丈夫なひとだよ」
由田さんはわたしの手を包み込む手のひらに力を入れて、励ますように声を弾ませて横から口を挟んだ。
「愛想も悪いし口は素っ気ないし、一見他人に関心なんかまるでないようにしか見えないけど。…こう見えても自分の教え子に対しては案外面倒見もいいし。何より相手が男か女かで態度を変えたりしない。いつもフラットに接してくれて、女の子に助平心を出してるのはこれまで見たこともないし。…アセクシュアルなんじゃないか、ってくらいその方面に関しては他人に関心ないから。ちょっとくらい赤裸々な話打ち明けても平気よ。眉ひとつ上げずに聞くはずだから、この先生」
蒲生先生のいつもの平板な声の調子が、心なしか憮然とした色合いを帯びているように感じられた。
「別に、そういう関心があるとかないとかいう場じゃないから、研究室は。性的な話や慣習でいちいち照れたりびびったりしてたら民俗学なんてやってられないだろ」
「はいはい、そうですよね。まあそれは一理なくもないか。…それにしても、案外柔軟なところあるんですね先生。論文にも学会で発表することにも、もしかしたら結果的に結びつかずに終わるかもしれないのに。追浜さんをサポートしよう、って自ら提案するとは。正直予想してなかった」
由田さんは意外そうに、でもやや楽しげな声で彼に向けて感想を述べた。蒲生氏は照れた様子もなく、からかうような調子のその突っ込みを平然とあしらう。
「だって、明らかにこの子何か他人に言えないこと抱えてるし。そのままにしておいて大丈夫っていう様子には見えないからさ。…普通ならまあ確かに。そんなの俺に関係ないし頭を突っ込むような権限もない、で見て見ぬ振りするけど」
するんだ。まあ、それはそうか。小中高の教師ならともかく、大学の先生だもんな。講義したり論文執筆や研究の指導をするのが仕事であって、学生の個人的な悩みや迷いに手を差し伸べることまでは職務の範疇じゃないだろう。
…だったら何で。とわたしはまだ顔を上げてそっちに目をやる勇気が出せないまま俯いて考えた。今回のこの件が、蒲生先生にとって『普通じゃない』んだ?
口振りはともかく、彼の口から出た次の台詞のその声色に僅かに温情のようなものが入り混じったように感じられた。
「今回はたまたま、追浜の抱えてる事情がどうやら俺たちの専門分野に被ってるようだから。学会に発表できるような事例に当たるかどうかは正直ちょっと疑わしいけど、その土地の風習の成り立ち来歴やいまの現状を調査分析する。って手法自体はいつもやってることと変わらないだろ?」
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