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彼は少し遅れたわたしのことは気にせずすたすたとさらに先を行き、唐突に古ぼけたあるドアの前で立ち止まるとこちらを待つように向き直ってからけろりと答えた。
「え、それは違うよ。正確には◎◎ってだけじゃ駄目で、県北出身者。君ってその辺の土地柄に詳しいでしょ。飲み会のときの雑談で言ってたじゃん、確か。あそこの山あいにある市街地について、案外充実したブックオフがあるとか何とか。…そんなの実際に行ったことがある人間にしかわかんないんじゃない?あんな、鉄道路線も通ってない陸の孤島。…あ、すいませ〜ん、蒲生せんせー。今いっすか?」
ノックもせずにいきなりドアを開け、頭を突っ込んで平然と気合いの抜けた声をかける曽根さんに思わず驚嘆した。…この人、半端ない。ガチのマイペースだ。
他人が自分のことどう受け止めるか心配する、って思考回路がない。わたしが深い縁のないただの後輩だから振る舞いが傍若無人だってわけじゃなく。…大学の先生に対しても(しかも単位の生殺与奪の権を握ってる相手に対してすら)まるで同じ言動なんだ…。
あまりのことにそっちに気を取られ、彼の説明の後半の部分について深く考える余裕がなかった。
それでわたしは、心の準備をする間もろくになく。…狭い研究室の中で机に向かってたのを声をかけられて振り向いたその人、蒲生則文氏に。有無を言わさず成り行きで、初めて引き合わされる羽目になったのだった。
「ああ、何だお前か。…今日は何?また言い訳か、それとも泣き落とし?」
部屋の中でこちらを向き直ったその人は、ドアの開く音に反応して一旦注意を惹きつけられてこっちを見たが。視界に入った顔を見てなぁんだ。とでもいうように一瞬ですんとなり、ひと言残してまた机の方へと身体の向きを戻してしまった。…え、ぇ…。
その見切りの素早さといったら。よほどそれまでの間に不毛なやり取りを重ねて彼をうんざりさせたんだろうな。と思わずわたしの隣に立つ曽根さんを横目でこっそり検めてしまったくらいだ。まあ、何となく。…さっきわたしを教室から連れ出したときのマイペースさと悪びれなさで、雰囲気的に想像はつくけど。
一方で心臓にふっさふさもふもふの毛が生えてるとしか思えない曽根さんはといえば、そのくらいの皮肉には全く堪えた風もない。平然と明るい笑顔のまま、ずかずかと研究室の中へと突入していった。
戸口でぼけっと遠慮して佇んでいてもしょうがないのでわたしも慌ててその背中に続く。けど、この分だと。
招かれざる客であることは間違いなさそうだから。早かれこの人と一緒に再び部屋の外へと放り出されるんだろうな、と覚悟を決めるのも忘れないようにする。
曽根さんはまるで気の置けない同期の友人にお対するみたいに、砕けた調子で軽口混じりにそのやや小柄な背中に向かい話しかけた。…仮にも先生の立場にある相手を前にしてのあまりの馴れ馴れしさに、見てるこっちが冷や冷やとなってしまいとてもじゃないが身の置きどころがない。
「いや、先生先生。ちょっと待って。今日の俺は今までの俺と全然違うよ。ちゃんとはっきりとした成果を持ってここまできたから。…約束通り、こうやって連れて来たでしょ。◎◎県北部出身の子だよ?間違いなく、これで。単位もらえますよね?」
「え、と。…あのですね」
わたしはさっき曽根さんが口走った話の内容をようやくそこで理解し、遅まきながら慌てた。
二人とも、こっちを全く見向きもしないで勝手にやり取りしてるけど。…今日の成果って言われてるこれって。どうやらわたしのこと、だよね?
何か誤解があるみたいなのでさすがにやばい。と焦って、二人の背後から急いで強引に割って入り言葉を挟んだ。
「水を差すようで何ですが。わたしは確かに◎◎県出身ですが、北部の出ではないです。県南部の○×市出身ですよ。曽根さんは何か、勘違いなさっているのでは?」
大丈夫、これは事実だし。別に嘘はついてない、と胸の内で自分に言い聞かせる。
それに、大学に入ってから。どんな場所でも水鳴村に僅かの期間住んでたことについては絶対、誰にも言ってないって自信がある。さっき彼が口走ってた天文同好会の新歓コンパでも、だ。
…そう、あれは。とまだ未成年だったからアルコールも入ってなかったし、終始きちんと理性的に振る舞ってたはず。と自らを落ちつかせて、あのときの状況をできる限り鮮明に再生しようと脳の奥に仕舞い込んであった記憶を探った。
…あのとき、コンパの会場の居酒屋で。この人が正にその場にいたかどうかまでははっきり覚えてないけど、確かに◎◎県北部の都市を想定した話をしたことはある。水鳴村じゃなく、山向こうでちょっと栄えてた、何度かバスで遊びに行ったあの市街地について。
たまたま同じテーブルに居合わせてた人たちが、自分たちの出身地がどれだけ田舎かとか俺んとこはそこそこ都会だった、みたいな繁栄度あるあるネタで盛り上がってて。
そのうちの一人が自分の生まれた町はまあまあ栄えてたと途中まで思ってたんだけど。世の中では電車の駅がない町はど田舎扱いだと知ってショックを受けた、それなりに店とかもいっぱいあって賑やかだったんだけどなぁとこぼした途端にみんなにめちゃくちゃ突っ込まれてた。
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