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「さて、と。…君のいた◇◇市だけど。確か、※※山の麓に位置するはずだよね。その山向こうにある水鳴って村落、聞いたことあるかな。村について知ってることがあれば何でもいいから教えてほしい。…又聞きや根拠のない噂、怪しい風聞に類することでも。全く構わないから」
…水鳴村。
その地名が耳を打った瞬間、自分でも想像してなかった変化が心身を一気に襲った。
正直、前回蒲生先生から◇◇市の話を振られたときに。村にいた頃のことをうっすらと思い出してしまい、嫌ぁな気持ちになったことは確かなんだ。
だけど全て終わった話だし。あんなことはすっかり忘れてもう切り捨てていい。あの土地にいたときのわたしと今のわたしは違うし、ここであの村でこの身に起きたことを知ってる人なんか誰もいない。
わざわざ嫌な記憶を自分の手で引っ張り出してくる必然性もないんだし。どうせ大して関係ない話だろうから、固く閉めた蓋を開けずに知らんふりしていればいいんだ。
多少話が掠っても、村の因習を知る人なんて外の世界にいるはずないんだから。こっちがわざわざそこに触れさえしなきゃ何とでもなる。
そう考えてた、…のに。
「…大丈夫?追浜さん」
きーん、と金属音みたいなのが脳内でゆっくりと大きくなっていく。微かにわたしの隣で、さっき研究室に招き入れてくれた女性らしき声が心配そうに投げかけられたまではわかったけど。…さあっと視界が白黒の激しい砂嵐に覆われて。全身の血が一気に引いた。…ちょっと、立っていられない…。
「…いえ」
大丈夫です、と言おうとしたけど声が出ない。
やむなく再び椅子の上に腰を下ろし、背中を丸めてひたすら状態が落ち着くのを待つ。じっと目を閉じてるのに真っ暗な視界の中にちかちかと盛大に光が明滅し続けてた。…これって何だろう。わたし、何かの病気?
「…多分、貧血ね。無理しないで、喋らないでいいよ。少し落ち着いたら医務室に行こうか。横になって休んだ方がいいよ?」
「大丈夫か、君?」
背中を撫でてくれる手の主はおそらくさっき話しかけてくれてた隣の女の人。周囲から口々にかけられる複数の心配そうな声に応えることもできず、わたしはじっとりと脂汗を全身にかきながらひたすら気が遠くなりかけるのに耐えていた。
…そう。あれはまだ、ほんの三年ほど前。
あの村にいた頃の記憶が一瞬だけ、その名前を久々に耳にしただけでわっと蘇って。フラッシュバックみたいに生々しい、混乱した感情でいっぱいになった。
自分では整理がついてる、終わったことだと蹴りをつけてたのに。思ってたより引きずってたんだなってことに今さら気づく。
わたしは周囲でざわざわする人の声も聞き分けられず、ただじっとうずくまって苦しい不調が通り過ぎて去っていくのをなす術もなく待ち続けた。
ようやく通りすがりの砂塵みたいな脳貧血の症状が治まり、わたしの手にはゼミ生の誰かが持ってきてくれた水のペットボトルが渡された。お礼の言葉を呟いて水分を補給するとすうっとその冷たさが喉に沁みわたり、ひとまず息を吐いて人心地つく。
「…その様子だと。どうやら村について天からまるっきり何も知らない、ってことはなさそうだな」
「先生。…今なにも、そんな話」
学生たちのざわめきが落ち着いて静まったところでおもむろに蒲生氏が重々しい口を開いた。途端にわたしのそばに身を寄せて何くれとなく世話を焼いてくれていたさっきの女性が、ちょっときっとなってそちらを睨みつける。
「別に。このタイミングで体調が悪くなったからって、村の話が出て動揺したせいだとは言えないでしょ。ただの偶然だと思う方が普通じゃないですか。何でもかんでも結びつけようっていうのは…」
温かな手のひらで丁寧に背中を優しくさすってくれてるのはありがたいけど。…多分、今の彼女の台詞の前半が正解なんだよな。と内心でこっそり考える。
自分でもここまでダイレクトに身体症状が出るとは思わなかったけど。予想以上にストレートに、考えるより早く身体が反応した。
精神から来るものだったのは確かだと思う。その証拠に、混乱が収まって何とか頭を落ち着かせよう。と頑張って自分を制していると、全身の不調が次第に消えてゆっくりと元の状態に戻ってきた。
「…大丈夫。そう、です」
確かめるようにしっかりと声を出して伝える。
「多分、ただの貧血みたい。…お騒がせしてすみません。もうしばらく。座って休んでいれば回復しそう。…です」
「そう?無理しないでね。そしたら、今日のところはひとまずみんなの発表でも聴いていて。また調子悪くなったりしたら、遠慮なく言ってね」
そう気遣いを見せてから彼女はわたしの隣の席に戻ったが、そのあと通常通りのゼミが始まってからもそばについて何かとこちらに気を配ってくれた。
わたしはまだ痺れが残る頭でぼんやりと、皆が端から順番にそれぞれの研究の進捗状況を報告してゆくのを何となく聞いていた。
蒲生ゼミは民俗学を専門に研究してる、というのは事実のようだった。
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