この場所で 後編

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この場所で 後編

 音楽以外は本当にいい加減にやってきた。それなりに人と付き合って、それなりの関係を作ってそれなりに生きてきた。誰かに依存することは望まないし、依存されることも望まない。だから深く想うこともできないし、きっと大切にもできない。傷つける方法しか知らない俺に『愛』はずっと無縁なものだったのだから。 「離さないで……」  何でこんなことになったんだろう。そんなことを冷静に考える頭とは裏腹に、俺の腕はもう我慢できないといわんばかりに花鈴(かりん)を強く引き寄せた。 「……バカなやつ」  心地よかったのに。  俺は、お前が側にいてくれるこの空間が好きだった。名前以外は何も知らない。お前も何も聞かない。ただ俺のピアノを隣で聴いて笑っているだけ。  それがよかった。  それでよかったのに。 「後悔するなよ」 「うん……しない」  ピアノだけを弾きに来る部屋。  ピアノだけがある小さな部屋。  この場所で、俺はお前を汚すのか。 「奏、そんなことしたら服が汚れちゃうよ」 「別にいい」 「私は大丈夫だから」 「俺が嫌なんだよ」 「なんで……」 「……おい。何泣いてんの」  そのまま床に倒すわけにはもいかず、だからといってこの部屋にベットがあるはずもない。こんなものを敷いたところで何の気休めにもならないだろうが。無いよりはましだろうと、徐に脱いだスタジャンを床に雑に広げると、花鈴は肩を振るわせた。   「傷つけたくないって言ったくせに……」 「今更傷つけられるのが怖くなったのか」 「違う」 「お前が傷ついてもいいって言ったんだろ」 「そうじゃないっ……!こんなの敷かずに好きにしてくれていいのに……傷つけるどころか、奏は……っん」  床に敷いたスタジャンに花鈴の涙が染み込んだのと同時に、噛み付くようにキスをして次の言葉を俺の中に飲み込んだ。  やめろ。これは優しさなんかじゃない。俺は自分の感情に任せてお前を抱くんだ。勘違いしないでくれ。  お前は本当はそんな女じゃないんだろ。こんな風に悪い男に捕まっていい女じゃない。俺が、身体を重ねていいような相手じゃないだろ。 「ふっ……ん……あっ」 「どこがいいの?教えて」 「い……やぁ……聞かないで」  必死に首を振る姿を見下ろしながら、その声がより甘くなる場所を探るように指を何度も沈み込ませる。 「奏……っんぁ……やぁ……っ」 「……ここ?」 「ちがっ……」  可愛い。人並みにそんなことを思う自分が心底嫌で花鈴の首筋に顔を埋めたまま、片方の手で柔らかい肌にゆっくりと指を滑らせた。 「触れられるところ全部いい?」 「ぁん……っ、奏……だめっ……」  首筋から耳にかけて焦らすように舌を這わすと花鈴は俺の胸を押さえて身体を離そうとする。 「……いいよイッても」  そのまま耳元で囁けば、胸を押さえてた花鈴の指がくしゃりと俺のシャツを掴んだ。 「……そ……うっ……」  その途端、息を飲むような高揚感が突然襲ってきてそのまま花鈴の首元に顔を押し付けた。快感に飲み込まれていったのは花鈴のはずなのに、自分の口元からも甘く荒い息が漏れた。 「は……大丈夫か」 「……ん」  呼吸を整えるように深く息を吐いて、まだ余韻から抜けられていない様な甘い返事を返す花鈴を見つめながらベルトへ手をかけると、起き上がった花鈴がその手を止める。 「ま……待って奏」 「何……俺もう我慢できないんだけど」 「私にもさせて欲しい……」 「何を?」  花鈴の手がそこに触れるとぴくりと身体が反応する。 「おい……」  こんなことを望んでいるわけじゃないのに。花鈴が何をしようとしているのかを脳みそが理解すると、すでに熱に侵された心と身体がさらなる快感を求めて疼き始めた。 「……っぁ」  慣れてないであろうその独特な舌の動きに、唇の隙間から熱い吐息が漏れた。冷静でいようと思えば思うほどこの状況に興奮する自分がいて必死に頭を振る。 「は……ぁ……も……いいから……」  擦れる声。意図せず漏れる自分の吐息に耳を塞ぎたくなって、この快感から逃げるように花鈴の頭に置いた指先に力を込めた。 「奏……まだ」  それに気付いた花鈴の一度離れた唇がまたそれに触れただけでもう限界を迎えそうだった。  こんなこと……他の誰かにもやったことがあるのか?慣れていないなんて俺の勝手な想像で、本当はこういうことをした経験があるのか?理性を捨てようとしている頭は考えなくていいことまで考え始める。面倒で必要のない感情。  一番苦手で……俺が何よりも恐れているこの感情。 「……っ、ぁ……もうやめっ……」  与えられる快感に抗うように掠れた吐息を吐くと、ゆっくりと花鈴の唇が離れた。 「ごめんなさい……下手で……」 「っお前、自分が何やってるか分かってんのか?」 「……だって」  俺のものなのか自分の唾液なのか、花鈴が唇の端に指を当てて銀色の糸を拭うと、その仕草にさえ身体が瞬時に反応する。お前はついさっきその口で俺の──。 「……お前、誰にでもこういうことしてるの?」 「ま、まさか!しないよ!」 「どうだか」 「本当だよ!誰にもやったことない」  花鈴の言葉に思わず目を細める。慣れていないことなんて分かってる。ただお前の言葉で聞きたいだけ。馬鹿な俺は、次の言葉を期待しているんだ。 「奏……だからっ……」 「俺だから?」 「そう、奏にだから……したいの」 「そんなに俺のことが好きなの?」  花鈴が躊躇うことなくこくりと頷くと、俺の中の何かがプツリと切れた。 「こっち来て。ここ」  床に寝かせるのが可哀想だなんて理由をつけて座っている俺に花鈴を跨がせた。戸惑う花鈴の腕を引いて、羞恥に襲われる花鈴の顔を眺めながら、身体に感じるその重みで快感と満足感を同時に得た。 「奏……や……動かないでっ……」 「じゃぁ花鈴が動いてくれんの?」 「待っ……ぁ……やだっ……」  なぁ。  抱きたかった。 「やだじゃないだろ」 「んっ……はぁ……っぁ」      俺はずっとお前のことを抱きたかったんだ。  ここで初めて会ったとき、関わり合うのが面倒でさっさと飽きて帰ればいいと思っていたはずなのに。気が付けば、俺はお前が来るのを待つようになっていた。早く会いたい、顔が見たい。会えない日は花鈴を思い浮かべてピアノを弾いた。  お前を知りたいと思う自分が怖くて。お前に依存しそうな自分が怖くて。その欲求をかき消す様に頭の中で何度もお前を汚していたんだ。 「っ……はっ……顔見せて」  俺の首に顔を沈める花鈴の肩にかかる髪に指を通す。俺なんかとまるで違う柔くて、細い髪。 「お願い……顔が見たい……」  甘える様に呟けば、目の前には頬を紅く染めて困った様に俺を見つめる花鈴がいる。汗と涙で張り付いた髪の毛を指で掬うと、どうにかなりそうだった。 「奏……」 「……何」 「好き」  俺もお前が好きだ。  それは言葉になることなく、ゆっくりと重ねた唇の奥へ消えていく。お前が『大切な誰か』になるのが怖い。そんな存在はいらない。俺を弱くするから。強くいたい。一人でも強く生きていきたい。   はずなのに──。 「顔見て動きたい。いい?」  唇を重ねながら床に寝かせると花鈴は俺の頬に手を伸ばした。 「……奏の好きにして」  冷たくて硬い床の上で重ねる身体は、より熱を求めてより深く重なろうとする。ここがどこであろうと関係ない。俺が誰で、花鈴が誰であっても。もうそんなことはどうでもいい──。 「ぁっ、も……だめ……奏……」 「もうだめなの」 「ぁ……ん……っ。動いちゃ……もう」 「まだだめ」  攻め立てるような動きをぴたりと止めると、固く閉じていた瞳を花鈴がゆっくりと開く。 「奏……」 「まだ離したくない」 「……っ。私は何度だって……」 「そうじゃない」 「奏……?」 「もう……他の誰にも抱かれないで」  嫉妬や独占欲ほど醜いものはない。でもこの気持ちほど己の気持ちを自覚するものもない。情けないけど、俺はもうその声も姿も表情も全て誰にも渡したくないんだ。 「ん……っ、やぁ……ぁっ……」  ピアノを弾く隣りで幸せそうに笑うお前が好きだった。適当に生きていくよりも、大切なものを守りながら生きていくほうが幸せだと思い知らされるような真っ直ぐで純粋なお前の瞳が何より苦手で、何より愛しかった。  果てるその瞬間まで全てを繋げていたい。本能なのか、快感と愛しさが入り混じった焦がれる気持ちなのか。細い指に自分の指を絡めて、俺の名前を呼ぶその唇を塞いで、感じたことのない快感の中に沈み込んだ。欲しくてたまらなかった愛しい人の温もりを求めるように──。  静かになった部屋に携帯の音が響く。    俺の上着に横たわっている花鈴の姿をピアノの前に座ったまま眺めていると、さっきまでの時間が幻の様に思えた。でも、不思議なことに後悔で真っ黒になるんじゃないかと思っていた心は驚くほど満たされて何度もあの瞬間を思い返している。 「はい」  携帯を耳に当てると慣れた声が鼓膜を揺らした。 「今……?」  ピアノの鍵盤に片方の指の重みを乗せる。部屋に響く音は、この気持ちをもう一度確認させてくれているようだ。 「俺は今、恋人の側でピアノを弾いてる」
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