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この場所で 前編
「……好き」
絞り出すような声で伝えたその言葉を、奏は表情一つ変えずに聞いていた。
「奏の……彼女になりたいの」
好きだった。
知り合ってからずっとずっと。
最初は近寄りがたいと感じた奏が持つ独特の雰囲気は、いつしか私に安心感を与えてくれるものになった。何気ない言葉に隠れた優しさを知って、その瞳に滲むあなたが持つ温かさも知った。そして私は、その横顔を幾度となく眺めては何度も何度も恋に落ちたんだよ。
その笑顔を見れるなら、その声を聞けるなら。奏がいるその空間に私がいることが許されているのなら、それだけでいいって。他には何も望まないとそう思っていたはずなのに。
「……本気で言ってんの?」
いつもより低い声に胸の奥が小さく音を立てる。いつも愛想よく話してくれるわけじゃない。機嫌が悪い日だってあった。気分が乗らないと口数が減って、より物静かになる姿も何度も見てきた。でも……こんな風に鋭い目線を向けられたことは一度もなくて、何かを望もうとした私に幻滅をしたのかと握りしめた手は小さく震えた。
「本気で……言ってる」
「やめとけ」
柱にもたれかかる奏の目からは何の感情も読み取れない。
「どうして?」
「俺じゃなくていいだろ」
「……っ。答えになってないよ」
「お前、もうここに来るな」
一度も言われたことのない言葉に胸の奥が軋むような音を立てると、その痛みに目の前が暗闇に包まれた。
「どうしてそんなことを言うの?奏……嫌だよ……」
「俺はお前が思ってるような奴じゃない」
「それでも……いいよ」
「馬鹿言うな。分かるだろ。帰れ」
「分かん……ないよ……」
涙で引き止めたいわけじゃないのに、溢れる涙を止める方法が見つからなくて縋るような言葉をしか出てこない自分が嫌になる。ここは奏の大切な場所であって、私は今すぐここを出て行くべきだと頭ではそう分かっている。
奏がピアノを弾くためだけにくるこの場所が好きだった。会社の帰り道、たまたま遠回りをして帰った日に見つけた離れのような小さな部屋。そこから聴こえたピアノの音色に思わず足を止めた。誰がいつ弾いているのかも分からないのに、気が付けば時間を見つけてはここへ通って外に漏れるピアノの音に耳を傾けるようになっていた。
偶然部屋から出てきたら奏と初めて顔を合わせて、いつの間にか話せるようになって、名前を知って、この場所で……奏の隣りでその音色を聴けるようになって幸せだった。それ以上は何も望んでいなかった。
そう、あの日まではそれでよかったはずなのに──。
仕事の帰りに偶然見かけた『この場所』ではない奏の姿。知らない女の人が隣りにいて、知らない奏がそこにいた。私が何も望まず隣りにいられたのは、私が何も知らなかったからだ。ここにいる間だけは奏が永遠に側にいてくれるような気がしていたから。私が『嫉妬』と言う感情に気付かなければこの場所にずっといられたのかもしれない。
でももう後戻りは出来ない。奏の隣りにいられることは永遠じゃないと知ってしまったのだから。
「傷つけたくない。お願い帰って」
「傷ついてもいい……」
「お前、いい加減にっ……」
「奏が……!私じゃだめなら、帰る。もう二度と来ないから……」
私の言葉に奏の瞳が微かに揺れて、その戸惑いが瞳の中から私の中に入り込んでくる。小さく息を吐いて冷静さを保とうとするその姿にすら胸が熱く苦しくなった。
いつも思ってた。その白い肌に触れたい。さらさらな髪の毛にも鍵盤に触れるその指にも……奏を形成する全てに触れたいって。
小さな溜息の後に絡み合う視線は熱を帯びていてじわりと私の欲を刺激した。
「来るな。まだ間に合う」
「……もう、間に合わないよ」
一歩近付くと奏の長い腕が私の方へ伸びて、私は静かに目を閉じた。
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